幸手市中:雷電神社
過日,雷電神社(埼玉県幸手市中)を参拝した。
雷電神社に関しては,『新編武蔵風土記稿』の巻之三十五葛飾郡之十六の中に幸手宿の雷電社として詳細な解説がある。雷電神社の江戸時代における別當寺は,曹洞宗・龍興山寶持寺(埼玉県幸手市北)だった。
景行天皇の頃,日本武尊が「薩手が島」という場所に上陸し,建御雷の神を祀ったことが「幸手(さって)」との呼称の由来であると同時に,雷電神社の創始に関する伝承の一つとなっている。
「薩手」の字義に関しては,以前,かなり細かく調べたことがある。
結論としては「菩薩の手」を意味し,(当時は現在の埼玉県南部の大部分が内海だったので)五指を広げたような舌状台地が並び,指と指との間が入江になっていたと考えた。
このような考察が成立するためには,(通説と反するかもしれないが)古墳時代またはそれ以前に仏教またはバラモン教が伝来していたということを承認する必要がある。
その後,次第に陸地化が進み,かつては日本武尊が上陸した入江のような場所が田になり,雷電神社も田を守護する神社へと変容し,田の中に黄金の女神像が出現したので祀ったという別の伝承が生じたのだろうと推測される。
この伝承も完全な創作ではなく,例えば,入江の陸地化が進むのにつれ,往古に何らかの原因に水底に沈んでしまった女神像が再び姿を現すことになり,人々がそれを祀ったということがあり得ると考えられる。
『新編武蔵風土記稿』によれば,この女神像は,盗難を防ぐため,寶持寺に安置されているとのこと。本当は,宝物である女神像のある寺院なので,「寶持寺」を寺号としているのかもしれない。
更には,一色五天神がなぜ五天神なのかを説く鍵もここにあるのかもしれない。すなわち,菩薩の片方の手の五指に相当する台地または自然堤防の先端それぞれに天神社を祀ると,五天神となる。
いずれにしても,内海の中に浮かぶ菩薩の掌のような大きな手のような形状の島だった土地の周辺が次第に陸地化したことと深く関係する神社だと言える。
関東地方の古代を知るためには,古代の地形に関する知識が必須だ。無論,その後の地殻変動に伴う隆起や沈降も考慮に入れなければならない。そのような基本的な知識なしには関東地方の古代に関する理解を誤る。
日本武尊の時代に関しては,関東地方の中心部は,(島のように点在する台地または自然堤防を除き)全て内海だったという理解が必須となる。
このような理解は,比較的細かい研究が行われてきた茨城県の古代地形に関する理解を基礎とすると,極めて自然なものとなる。
『常陸國風土記』に記されている日本武尊の辿った行程は,古墳時代~律令時代における古代道及び海路を理解していれば,非常に素直に理解できるものとなっている。
現在の幸手市の範囲に含まれている地域に関しては,どうして江戸時代の日光街道の一部になっているのか,それ以前の時代においても非常に重要な街道筋となっていたのはなぜかのかを徹底的に考究することによって推知可能なことがかなり多数ある。
そのような理解の大前提として,鎌倉時代には小氷期が到来しており,そのことが元の南下を呼び,日本国に対する元寇の引金となったという面だけではなく,小氷期に伴う海退があったために,場所によっては干拓を行い易くなったところもあるということを理解しなければならない。
学説史においては観念それ自体が重要であるかもしれないし,特定の政治的立場の人々にとっては特定の政治イデオロギーの表現それ自体である「史観」なるものを固守することが至上命令なのかもしれない。
しかし,歴史学説史上の個々の学説の当否の探求や議論のための議論のためにではなく,事実としての歴史の探求においては,その基礎的な事実を理解するためのメタ事実の理解が極めて重要になる。
そのようなメタ事実を表現するための知識の中には,物理学上の知識,地質学上の知識,生物化学上の知識,植物学上の知識等も含まれる。
雷電神社入口付近
説明板
鳥居
拝殿
斜め前から見た社殿
本殿
左側の御狛犬
右側の狛犬
境内社(稲荷神社?)
境内社
二十三夜供養塔
田宮会館
神社ぐだぐだ参拝録:雷電神社(中四丁目)
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