幸手市北:寶持寺
過日,曹洞宗・龍興山寶持寺(埼玉県幸手市北)を参拝した。本尊は,釈迦如来。脇侍は文殊菩薩・普賢菩薩。
寶持寺に関しては,『新編武蔵風土記稿』の巻之三十五葛飾郡之十六の中に幸手宿の寶持寺として詳細な解説がある。ただし,『新編武蔵風土記稿』では,寶持寺の山号を「金龍山」とし,「近江國石雲院末」としているが,この本寺の記載は「遠江國石雲院末」の誤記。近江國石雲院とは,曹洞宗・龍門山石雲院(静岡県牧之原市坂口)のことを指す。
また,後上辰雄編『幸手町誌』(大正5年・復刻版昭和57年)の207頁には,「金龍山寶持寺」として,解説がある。
寶持寺は,元徳5年(1464年)に一色公保(法諡・寶持殿孝嚴相公庵主)の菩提寺として創始された寺院。
『新編武蔵風土記稿』に記されている寶持寺の伝承によれば,幸手城主・一色公保の四男・石堂四郎義房は,一色公保の三男であり,寛正2年(1461年)に出家して石雲院の李雲の弟子となっていた太安養康を呼び戻して同寺に住まわせた。太安養康は,家臣・金子勝則を伴って石雲院に出向き,師である李雲に寶持寺の開山を請い,自らは二世となって寶持寺を嗣いだという形をとったとのこと。太安養康は,102歳まで生き,天文18年(1549年)に寂した。
この間の経緯に関し,文献により,「一色公保」ではなく「一色公深」とするものもあるが,同一人のことを指すと解される。
なお,一色氏に関しては,『新編武蔵風土記稿』の幸手宿の「城蹟」の条に非常に詳しい説明がある。
一色氏の城は,「城山」と呼ばれる場所にあったと書かれている。現在,一色氏の城(砦または館)は,一色稲荷神社(埼玉県幸手市中)の境内地付近にあったとされているが,この場所は,「城山」と呼べるような地形の場所ではない。
私見としては,現在の幸手市南~幸手市上高野~同市天神島に位置する広い範囲にわたって複数の郭が連携するような形で一色城が構築されており,その主郭は,現在の上高野神社(埼玉県幸手市南)の境内地付近にあったのではないかと考える。
寶持寺入口の門柱
入口脇の青面金剛明王・地蔵菩薩・庚申塔
三面六地蔵
山門(仁王門)
山門(仁王門)の内側
山門(仁王門)の側面
本堂
本堂屋根の寺紋
寶持寺の説明板
鐘楼
梵鐘
御堂
供養塔
六地蔵
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