埼玉県南埼玉郡宮代町金原:稲荷神社と金原稲荷塚古墳
過日,保食神社(埼玉県南埼玉郡宮代町金原)を参拝した。祭神は,倉稲魂命。
社名に関し,鳥居の扁額には「保食神社」と記されているが,参道にある稲荷神社二百年祭記念碑には「稲荷神社」と記されている。
この稲荷神社二百年祭記念碑によれば,稲荷神社は,安永4年(1744年)に本宮正官摂津守により創始された神社とのことなので,この記載のとおりであるとすれば,その年に京都の伏見稲荷の分霊を勧請して創始された神社だということが分る。
他方,宮代町教育委員会編『宮代町史 通史編』(平成14年)の395頁は,『武蔵國郡村誌』を引用して,この場所に鎮座しているのは宮崎坊である稲荷社と雷電社であるとしている。
稲荷神社の境内には「雷電宮」と刻まれた石祠があるので,それが「雷電社」に該当すると考えられる。
『宮代町史 通史編』の376頁には,宮崎坊の解説がある。
この解説によれば,宮崎坊は,「百聞東村西光院の門徒寺で,稲荷山といい,本尊には不動を祀る」とのこと。
要するに,稲荷神社は,元は稲荷山宮崎坊と称する真言宗智山派の寺院(百聞山西光院の末寺)であり,稲荷神社及び雷電神社と習合していたが,後の神仏分離によって現在のような稲荷神社を主体とする神社になったということか,または,百問山西光院が保食神社の別當寺だったということなのだろうと推定される。
そこで調べてみると,稲荷神社(宮代町遺跡地図上では「保食神社」)の境内地全部及びその東側にある民家敷地(現況は屋敷林)付近を含む土地は,「金原稲荷神社遺跡」と呼ばれる室町時代~戦国時代~江戸時代の寺院跡遺跡の包蔵地となっている。
そのことから,稲荷神社は,元は稲荷山宮崎坊と称する真言宗智山派の門徒寺であり,後の時代の神仏分離によって稲荷神社(保食神社)になったと理解するのが妥当だと考えられる。
なお,塩野博『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』(さきたま出版会,2004年)の480頁によれば,「金原」には「金原稲荷塚古墳」と呼ばれる古墳があり,その墳頂には毘沙門天が祀られているとされている。その所在地は,金原稲荷神社遺跡の東端(真言宗智山派・金谷山遍照院の西)に位置する民家敷地(現況は屋敷林)だとされている。
民家敷地の一部(屋敷林)であるため,実際にはその場所を訪問していない。そのため,その古墳または塚が現存するかどうかは確認していない。
しかし,宮代町遺跡地図の記載等から判断すると,金原稲荷塚古墳とされてきた塚は,古墳時代の古墳ではなく,真言智山派・稲荷山宮崎坊の境内地内にあって毘沙門天を祀る信仰塚の一種だったと理解すべきなのだろうと考えられる。
ただし,その塚部分に関して発掘調査が行われたことがあるのかどうかは不明。発掘調査が実施されないままだとすれば,あくまでも机上の理屈としては,古墳時代の古墳を後に毘沙門天を祀る信仰塚として二次利用したという可能性は残る。
鳥居と参道
稲荷神社二百年祭記念碑
手水
拝殿
斜め前から見た拝殿
本殿
境内社が並んでいる様子
境内社(金山大神・天満宮・雷電宮)
境内社(雷電宮)
境内社(金山大神)
境内社(金谷権現)
農地の作法
金原集会所
神社ぐだぐだ参拝録:保食神社(宮代町金原)
埼群古墳館_改:宮代町稲荷塚古墳
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