千葉県夷隅郡御宿町岩和田:大宮神社とドン・ロドリゴ
過日,大宮神社(千葉県夷隅郡御宿町岩和田)を参拝した。祭神は,大物主命。
大宮神社に関しては,御宿町史編さん委員会編『御宿町史』(平成5年)の746頁に解説があり,また,『御宿町史』の742頁にその記載がある。
『御宿町史』によれば,大宮神社は,景行天皇四一年に小碓命(日本武尊)東征の際,現在の境内地の南に位置する三嶽山と呼ばれた場所に大物主命を勧請して東征の成功を祈願したのが始まりの神社とされている。その後,火災等で何度か社殿を失い,場所を移転して再建されるということを繰り返した後,嘉永元年(1848年)に現在の場所に遷座して今日に至っているとのこと。
現在の社殿は,昭和24年に建設された建物。
慶長14年(1609年),前フィリピン諸島長官ドン・ロドリゴ・デ・ビデロ・イ・ベーラコスが任期を終え,マニラからメキシコに向けて航行中のサン・フランシスコ号が暴風雨のために岩和田村の海岸沖で座礁し,岩和田村の住民が総出で救助に当たった結果,乗組員373名のうち317名が救助された。その際,サン・フランシスコ号乗組員の救助活動の拠点となり,炊き出しなどの支援活動が行われたのが現在では大宮神社の鎮座地となっている場所だったようだ。
この場所は,当時には,大宮寺普賢院という修験道系の寺院の境内地だったとされている。大宮寺普賢院に関しては,『御宿町史』の769頁に解説がある。
大宮神社の背後にある山の上にはドン・ロドリゴ上陸地点の碑が建立されている。この場所は,千葉県指定の文化財(史跡)となっている。
なお,ドン・ロドリゴの一向は,大多喜藩主・本多忠朝のはからいによって大多喜村に滞在して大多喜城(千葉県夷隅郡大多喜町大多喜)を訪問し,更に,徳川家康・秀忠に謁見した後,徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)に命じて建造させた大型帆船に乗船して,浦賀からメキシコに帰還した。
ドン・ロドリゴが作成した滞在記録は,当時における夷隅地方や大多喜藩の様子を知るための極めて貴重な史料となっている。ドン・ロドリゴに関しては,大多喜町史編さん委員会編『大多喜町史』(平成3年)の411~421頁に詳細な解説がある。
このような歴史上の出来事があったことから,大多喜町にもメキシコとの友好記念碑がある。
社号標
鳥居と石段
手水
石段
左側の狛犬
右側の狛犬
拝殿
斜め前から見た拝殿
本殿
神輿蔵
石祠
ドン・ロドリゴ上陸地点の碑(御宿町)
メキシコとの友好記念碑(大多喜町)
ドン・ロドリゴの帰還のためにウイリアム・アダムスに命じて造船したという事跡は,徳川家康の時代には外洋航海可能な洋式の大型帆船を建造することのできる船大工が大勢存在したということを示していることにもなる。当時における外洋航海可能な洋式大型帆船の建造例としては,伊達政宗によるサン・ファン・バウティスタ号もある。
しかし,徳川幕府は,出島などの例外を除き,海外との直接の貿易を禁止する政策を採ったので,そのような高度な造船技術が活かされ,貿易の拡大につながることはなかった。
これは,貿易による利益の蓄積により諸般が力をつけ,徳川家に歯向かうことがないようするための政策だったと考えられるが,後に,薩摩藩は,徳川家が危惧したようなやり方で力をつけ,英国式の最新兵器によって武装を整えた上で戊辰戦争によって徳川幕府を倒した。
その後における日本国政府は,西欧の最新技術を学習・模倣・導入することに最大限の力を注いできたのだが,その結果として,日本人の研究者や技術者による独自の研究,開発や発見等を軽視または蔑視するような風潮を固定化させてしまったのではないか,そのために,(ノーベル賞,芸術関係やスポーツ関係の世界レベルの各種の賞のような西欧の評価機関による賞を受賞しない限り)真に能力のある日本人が尊重されることが滅多になくなってしまったのではないかというような印象を受ける。
自分自身の高度な客観性のある優れた価値判断基準とその基準を駆使する評価能力をもたず,(現代の経済界における格付け機関等を含め)海外の国際的な評価組織等の価値評価に依存するという基本姿勢は,形式的には平和的であるかもしれないが,実質的には奴隷的な素質を示すものでもあり得る。
千葉県教育委員会:ドン・ロドリゴ上陸地
サン・ファン・バウティスタの復元
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