千葉県夷隅郡大多喜町:大多喜城跡(その2)

過日,大多喜城跡(千葉県夷隅郡大多喜町大多喜)と関連遺跡等を訪問し,見学した。

大多喜城に関しては,大多喜町史編さん委員会編『大多喜町史』(平成3年)の297~317頁,夷隅郡役所編『千葉縣夷隅郡誌』(大正12年,1990年復刻版)の329~330頁にその解説がある。

『大多喜町史』の509頁によれば,元和3年(1617年)に本多政朝が播磨国龍野に転封となり,その後に藩主として阿部正次が大多喜城に入ったが,2年間だけ入封しただけで元和5年(1619年)には相模国小田原城主として転封となり,その転封の後,大多喜藩は約15年にわたり廃藩となり,大多喜城も廃城となった。その結果,後に大多喜藩が復活した後になっても,大多喜城は,「塀ひとつない」荒れた遺跡状態のままで幕末まで続いたようだ。これらの諸点に関しては,『大多喜町史』の403~404頁でも詳細に述べられている。
なお,阿部正次は,小田城(茨城県つくば市小田)の城主・八田宗綱の二男・小田知家の末流とのこと。

現在,大多喜城本丸跡の中心部分には天守閣のような形をした現代の建物が建っている。
この建物は,千葉県立中央博物館大多喜城分館だったのだが,千葉県から大多喜町にこの建物の管理を移管するために改修中との理由で2021年から閉館になっている。しかし,今後の見込みは明らかではない。予算欠乏のためかどうかは知らないが,ここまま施設廃止・解体となってしまうのではなかろうか。

大多喜城の天守閣に関しては,実際に存在していたけれども火災で焼失したという見解と全く存在していなかったという見解とがある。

天守閣が存在したけれども火災で焼失したとの見解は,文政10年(1827年)に描かれた「大田喜城絵図」と本丸跡の発掘調査結果として焼土が発見されたという事実を根拠にしている。
これらの諸点に関しては,『大多喜町史』の405~408頁に解説がある。

現在本丸跡の中心部にある天守閣のような形をした現代の建物は,天守閣が存在していたけれども火災により焼失したという見解を前提とした上で,推定に基づき,天守閣を再現した建物ということになっている。
その再現の基礎となっている図面が真正なものであるかどうかに関しては検討の余地があると考えられるが,少なくとも,文政10年(1827年)に描かれた「大田喜城絵図」を基礎とする場合,図面に描かれたとおりの建物が存在していたとしても,その建物は,本多忠勝が建設した建物ではあり得ないということになる。

現在,本丸跡には,研修館という建物もあり,この研修館の方は開館している。研修館の中では,武士の時代の甲冑や大多喜城関連の展示が行われている。

本丸跡は,明治時代に掘削されており,本田忠勝が築城した当時とは相当に異なる形状となっている可能性があるが,その点はさておき,本丸跡の南側~南東側には土塁跡とされる遺跡が残存している。
これが土塁であったとした場合,元はもっと整った形状をしており,堅固な塀や門が建てられていたはずだ。現況はかなり風化した後の遺物ということになる。


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東の方から見た本丸跡の建物


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現在閉鎖中の本丸跡の建物


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家紋の説明板


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土塁跡(一部)


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同上


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土塁の説明板


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研修館


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研修館内で展示されている甲冑


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同上


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研修館内で展示されている五輪塔


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五輪塔の説明板



 千葉県教育委員会:上総大多喜城本丸跡 附 大井戸 薬医門1棟

 余湖:大多喜城・栗山城(千葉県大多喜町)



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