千葉県夷隅郡大多喜町:大多喜城跡(その1)
過日,大多喜城跡(千葉県夷隅郡大多喜町大多喜)と関連遺跡等を訪問し,見学した。
大多喜城に関しては,大多喜町史編さん委員会編『大多喜町史』(平成3年)の297~317頁,夷隅郡役所編『千葉縣夷隅郡誌』(大正12年,1990年復刻版)の329~330頁にその解説がある。
大多喜城の歴史に関しては諸説あるが,発掘調査結果等を踏まえると,戦国時代の小田喜城(里見氏が支配)の所在地を本多忠勝が大規模に改変し,現在のような城の基礎を構築したと考えられる。
ただし,大多喜藩の領主が本多~阿部~稲垣~松平(大河内)と変遷した際に城の一部が改変された可能性が十分にあり,また,廃藩置県以降,本丸以外の部分(特に水堀と空堀)が相当に改変されているため,城全体の詳細に関しては未解明の部分が残されているようだ。
さて,いすみ鉄道・大多喜駅付近には金属製の大手門が存在するが,これは現代のモニュメントの一種であり,城跡遺跡の一部ではない。
大多喜城の大手門跡遺跡は,八幡神社(千葉県夷隅郡大多喜町大多喜)の参道入口付近にある。ただし,実質的には標柱と切通しの一部があるだけであり,往時の様子を想像するのは非常に困難。
大多喜城が築城された当時における比較的信頼できる記録としては,ドン・ロドリゴが訪問した際の見聞録が残されており,その中に大手門~堀跡付近の往時の様子が描かれている。
この見聞録に関しては,『大多喜町史』の411~421頁に詳しく書かれている。
大手門跡付近には「登髙學舎遺蹟」と記された石碑が建立されている。
『大多喜町史』の1252~1253頁によれば,この登高学舎とは,旧大多喜藩(大河内)の藩士・小畠鋪太郎が創立した明治12年に創立した塾であり,多くの人材が育てたのだという。昭和10年に登高学舎の卒業生達が小畠鋪太郎の遺徳をしのんで登高学舎があった場所にこの石碑を建立したのだという。
この石碑は,その後,当初建立された場所から現在の場所に移されたとのことなので,石碑のある場所に登高学舎の建物があったというわけではない。
『大多喜町史』の1252~1253頁によれば,この登高学舎とは,旧大多喜藩(大河内)の藩士・小畠鋪太郎が創立した明治12年に創立した塾であり,多くの人材が育てたのだという。昭和10年に登高学舎の卒業生達が小畠鋪太郎の遺徳をしのんで登高学舎があった場所にこの石碑を建立したのだという。
この石碑は,その後,当初建立された場所から現在の場所に移されたとのことなので,石碑のある場所に登高学舎の建物があったというわけではない。
この大手門跡付近から西の方に進むと,大多喜城空堀跡の遺跡所在地(現況は,宅地・テニスコートなど)を経て,大多喜城二の丸御殿薬医門と大多喜城本丸跡附大井戸が保存されている千葉県立大多喜高等学校の敷地の方に至ることができる。(グラウンドを含め)千葉県立大多喜高等学校の敷地の大部分は,大多喜城の二の丸の所在地だった。
本丸跡附大井戸付近から大多喜城本丸跡東側斜面に設けられた道を登ることができるようになっているが,その通路は千葉県立大多喜高等学校の敷地の一部を通るので,授業等の邪魔にならないよう,細心の注意を払う必要性がある。観光客等が大声で騒いで問題化すると,見学禁止になってしまうかもしれない。
この大多喜城本丸跡東側斜面の途中には穴が開いている場所があった。江戸時代に開鑿されたという水道路の一部ではないかと考えたが,よく分からない。
大手門跡所在地付近の様子
大手門跡付近
登髙學舎遺蹟碑
空堀跡(東端部分付近)
空堀跡(現況テニスコート部分)
千葉県立大多喜高等学校東側の道路
薬医門所在地付近の土塁跡様のもの
薬医門
薬医門内側
説明板
説明板
大井戸跡
説明板
大井碑
注意書
大多喜城跡の一部(現況グラウンド部分)
大多喜城本丸東側斜面(一部)
大多喜城本丸東側斜面を通る道
(下の方から見上げた様子)
大多喜城本丸東側斜面を通る道
(上の方から見下ろした様子)
水道遺跡の一部?
大多喜城本丸東側斜面を通る道(続き)
同上
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大多喜城本丸跡東端付近にある四阿
復元された塀
本丸跡にある薬医門の説明板
本丸跡にある大井戸の説明板
大多喜城本丸跡東端付近から見える景色
千葉県教育委員会:上総大多喜城本丸跡 附 大井戸 薬医門1棟
余湖:大多喜城・栗山城(千葉県大多喜町)
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