南房総市平久里中:平群天神社
過日,平群天神社(千葉県南房総市平久里中)を参拝した。主祭神は,菅原道真公。木花之佐久夜毘売命・天照大日霎貴命・建御名方神を配祀している。
平群天神社は,文和2年(1353年)に細川相模守が奇異の霊夢を感じて北野天満宮を勧請し,創始された古い神社だとされている。
平群天神社に関しては,千葉県安房郡富山町教育委員会編『平群村誌』(昭和33年)の266~271頁に詳細な解説がある。同書の267頁には平群天神社の祭神に関する異説が紹介されており,そこには「少彦名命祀る。北方伊豫ヶ岳頂上に少彦名命の石宮あり。世俗に云う是れを天神社奥院」と記されている。
元は忌部氏と関係する神社だったけれども後に北野天満宮を勧請して天神社となったと推定可能であるとすれば,この異説は無視できない。
平群天神社に伝えられてきた紙本著色天神縁起絵巻は,千葉県の有形文化財に指定されている。
平群天神社の参道にあるクスノキは,「平久里天神社くすの木」として,南房総市の天然記念物に指定されている。
伊予ヶ岳を中心とする周辺一帯は,千葉県立富山自然公園の範囲内に含まれている。
鳥居
境内地から見た伊予ヶ岳の頂上付近
伊予ヶ岳の説明板
参道のクスノキ(男木)
参道のクスノキ(女木)
石段
手水
拝殿
本殿
左側の狛犬
右側の狛犬
文化財の説明板
打上げ花火の筒
平群の花火・打上げ花火の筒の説明板
伊予ヶ岳の天狗の説明板
平群郡は,古代の郡の一つだったが,養老2年(718年)にそれまでの「阿波郡」を改めて再編成された「安房郡」に併合されて消滅した郡とされている。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」にある「阿波国」の範囲は,阿波郡(現在の館山市付近)と平群郡(現在の南房総市付近)の両者を含む範囲だとされている。吉田東伍『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』(冨山房,初版明治36年・増補版昭和45年)の563頁は,阿波国の国府に関し,『和名抄』等を引用し,「国府在平群郡」としている。
要するに,旧平群郡の所在地は,古代の房総半島において極めて重要な場所である。
そして,そのことを明示する史書等は存在しないけれども,平群郡は,古代の平群氏と関係する場所だったと考えられる。
一般に,安房国(旧阿波国)は,大伴氏及び忌部氏と関係する場所とされているのだが,これは壬申の乱以降にそのようにされることによって蘇我氏系の人々が生き残るための方策の一種なのだと考えられる。
私見によれば,古代の房総半島は,蘇我氏との関係が深いと考えられる。平群氏は,蘇我氏と同じく武内宿禰を祖とする蘇我氏と同祖の諸氏の一つ。
大雑把に言えば,現在の関東地方全域にわたって蘇我氏及び同祖の各氏族の荘園が存在しており,馬を飼育するための牧が多数存在したのだと想像される。
古代の平群郡も同様だったと考えられ,もしかすると古代の遺跡が地下に眠っている場所が残存しているかもしれない。
一般に,養老2年に「阿波郡」を「安房郡」と改めたのは,西国にある「阿波」との混同を避けるためとされており,そのとおりなのだと考えられる。
しかし,私見としては,単に呼称だけの問題にとどまらず,長狭郡の消長という歴史上の出来事を含め,蘇我氏の盛衰と白江(白村江)の戦以降の国情の大規模な変化とその後の地方における混乱を収束させるという目的が最も大きかったのではないかと想像する。
一般に,蘇我氏及び同祖の諸氏が壬申の乱(672年)以降にどのようにして生き延びることになったのかについては,日本国の正史の中で詳細が述べられることがほとんどない。
それゆえ,(考古学上の成果を踏まえつつ)想像に頼らざるを得ない。
仮に現在の関東地方の非常に多くの場所に蘇我氏及び同祖の諸氏の荘園が存在し,壬申の乱の後にはそれらの荘園も大混乱となったが,藤原氏が朝廷における支配権を握るようになると,従前の蘇我氏及び同祖の諸氏の荘園も藤原氏の荘園または藤原氏の者を代官とする伊勢神宮の荘園に再編成され,従前の蘇我氏及び同祖の諸氏の長者らは律令制下における郡の上級官吏として仕えるということになったと想像すると,何となくまとまりのある古代史像を描くことができるように思われる。
忌部氏もまた,朝廷における政治上の勢力の盛衰と連動し,藤原氏に押されるようになると次第に劣勢になり,(伊勢神宮の荘園を含め)忌部氏支配の荘園や神社等も次第に藤原氏系のものへと変化したのではないかと想像される。
『先代旧事本紀』は,古代の日本国の正史から外されてしまった古代の諸々の重要な出来事を歴史として記録し,後世に伝えるという極めて重要な役割を担って編纂された書物なのだろうと思う。
これらの古代の日本国内における政治体制上の変化は,隋から唐へと極東アジアの政治情勢が大規模に変化したことの影響が日本列島にも及んだ結果なのだと言える。
長期にわたる平安により支配階級が堕落したということもあるとは考えられるが,律令国家への移行という日本国の歴史における大規模な変化の国際政治上の動因となっていた唐が衰退すると,日本国内の政治情勢も次第に変化し,名目的な威厳や権威だけでは日本国を統治できなくなるという当たり前の変化が生じたと考えられる。
山田区青年会:平群天神社
千葉県教育委員会:紙本著色天神縁起絵巻
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