鴨川市広場:後広場2号墳
過日,広場古墳群(千葉県鴨川市広場)に属する広場塚古墳の所在地を訪問した後,同古墳群に属する後広場2号墳の所在地を訪問し,見学した。
広場古墳群に関しては,財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』(平成15年)の328頁に解説がある。
同書同頁は,広場古墳群の所在地となっている台地に関し,長狭国造の本拠地だとした上で,同書330頁は,同古墳群の中で最も大きな後広場1号墳(隠滅)を長狭国造の一族のものと推定している。
広場古墳群を構成する古墳の中で墳丘が残存する唯一の古墳である後広場2号墳は,広場地区集会所の北側~北東側に位置する民家敷地内にある。この場所は,砂丘地とされている。
『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』の330頁は,後広場2号墳に関し,径42m・高さ4mの円墳としている。
ただし,鴨川市史編さん委員会編『鴨川市史読本編 鴨川のあゆみ』(平成10年)の37~38頁は,後広場2号墳に関し,径37m・高さ3mの円墳としている。この記述は,財団法人千葉県文化財センター編『千葉県文化財センター調査報告書第272号 山武町胡麻手台16号墳発掘調査報告書』(平成6年度)の175頁の記述に依拠していると考えられる。
後広場2号墳の墳丘北側の宅地所在地付近は,昭和61年(1986年)に発掘調査が行われた場所であり,幅9.5m・深さ1mの周溝が確認されている。
周溝内から出土した遺物(土師器の小破片)により,古墳時代後期の古墳と推定されているとのこと。
後広場2号墳の現況は,墳丘の大部分が残されているように見える。墳丘上部は広く平坦であるように見える。
ただし,墳丘の北側~北西側は宅地造成により綺麗に整地されており,墳丘裾の一部が削られ,また,宅地部分に存在した周溝が隠滅したのではないかと推定される。
なお,墳丘の手前には白い標柱が立てられている。古墳であることを示す標柱ではないかと考えたけれども,風化により文字がかすれてしまっているので,確認できなかった。
この標柱のようなもの以外には案内板も説明板もない。
ちなみに,後広場2号墳は,鴨川市域に遺されている極めて希少な古墳時代の墳丘墓遺跡でありながら,鴨川市の文化財(史跡)にも千葉県の文化財(史跡)にも指定されていないようだ。
広場地区集会所
(集会所建物の右手奥が墳丘所在地)
広場集会所北側(後広場2号墳の墳丘西側)付近の様子
西の方から見た後広場2号墳の墳丘の様子
同上(近影)
標柱?
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