日高市新堀:高麗神社
過日,高麗神社(埼玉県日高市新堀)を参拝した。主祭神は,高麗若光。高麗若光は,高句麗の宝蔵王の子とされている。
高麗神社の本殿裏付近には,高麗神社の神職を努める高麗家の住居として使用された高麗家住宅がある。
高麗神社には猿田彦命と武内宿祢命も祭神として祀られている。
その由緒は不詳。高麗家は,猿田彦命と武内宿祢命が渡来民としての高麗族の祖として理解しているということなのかもしれない。
高麗神社との社号は,明治時代以降のものであり,それまでは高麗大宮大明神,大宮大明神または白髭大明神と称した。
また,高麗家は,神仏習合の時代には修験者として別當の地位にあったことが知られている。それゆえ,高麗神社の境内地付近には仏教と関連する石造等も残されている。
高麗神社の本殿は,天文21年(1552年)に建立された建物として理解されており,埼玉県の文化財に指定されている。
高麗神社の境内社として水天宮があり,安徳天皇を祀っている。この水天宮は,江戸時代に勧請された。
水天宮が安徳天皇を祭神としている理由は不詳。当時の高麗家としては,安徳天皇の父である高倉天皇と母である徳子(建礼門院)の両方または一方が高麗若光の子孫または縁者だという認識をもっていたのではないかとも考えられる。
高麗神社入口付近
鳥居
参道の鳥居
説明板
手水
参道
石段と門
拝殿
本殿(覆殿)
ヒノキの古木
珪化木
社務所など
社殿と玉垣など
説明板
神楽殿
齋館
境内社
水天宮の礼拝所
水天宮に登る山道の途中にある石祠
水天宮に登る山道から見た境内地の様子
山の頂上付近
水天宮の鳥居
水天宮の社殿
高麗神社駐車場前の様子
古い供養塔
古代において,唐の支配を確実なものとするために断行された対高句麗戦と対倭戦は,いずれも唐の勝利となった。
敗戦直後の倭國は,第二次世界大戦の敗戦国としての日本国が置かれた状況と酷似した国際的・政治的な状況下にあったと推定される。
白江(白村江)の戦の敗北後当時,第二次世界大戦後においてGHQが果たした役割を担っていたのは渤海國だったと推定され,それゆえ,『続日本紀』では,渤海國からの使節を天皇と同格またはそれ以上であるような印象を与える特別の存在として描いている。
唐に対して日本国が平伏せざるを得ないような国際状況は,唐の国力が衰退し,対外的な大規模軍事行動を実行できる実力を唐が失う頃まで続き,そのようになるまでは遣唐使が派遣されたのだと理解するのが合理的だと考えられる。
なお,「高句麗」の「句」は唐による一方的な別称の一種と考えられるので,中国の史書において「高句麗」と書かれている国の本来の国名は「高麗」だったとする見解が圧倒的に多い。
それゆえ,例えば,『新撰姓氏録』に「高麗」と書かれていれば,唐の目からみた「高句麗」のことを指すと解することになる。ただし,『新撰姓氏録』に「高麗」として出自が書かれている氏族であっても,何らかの政治的理由により真実が隠されている可能性は否定されない。
高麗神社
菅澤庸子「八世紀における新来渡来人の改賜姓について」
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