茨城県結城郡八千代町菅谷:医王寺
過日,真言宗豊山派・医王寺(茨城県結城郡八千代町菅谷)を参拝した。本尊は,不動明王。
医王寺の創始等の詳細は不明だが,境内に建立されている薬師堂改築記念碑によれば,医王寺は,医王寺に伝わる古記録の記載や棟札の記載などから,遅くとも宝暦2年(1752年)には存在していた寺院であり,その創始は中世に遡るものと推定されている。
医王寺の所在地である八千代町菅谷は,江戸時代には主に幕府・旗本領で構成される旧結城郡菅ノ谷村に該当すると考えられる。
この菅ノ谷村には寺領が存在していたとされていることから,江戸時代には医王寺が寺領をもつ大きな寺院であり,幕府・旗本と関係する格式の高い寺院だったというようなことが推察される。
ただし,この点に関しては,関連古文書を丹念に調べ,検証可能な検討・考察を行った上でなければ,確実なことは言えない。
明治時代の廃仏毀釈のため一時荒廃したけれども,その後再興され,現在に至っている。
本堂は,とても立派な建物。その本堂とは別に薬師堂が建立されており,薬師如来が安置され,崇敬されている。
医王寺入口付近
本堂
薬師堂
薬師堂改築記念碑
鐘楼
御堂
十二支守護尊と菅谷観世音菩薩
この記事へのコメント
コメントありがとうございます。
公式文書や根拠が確実と判断できる文献資料の中で入手できる資料を基礎としてブログを書いています。
医王寺が何代も続く古い寺院だということは理解しております。薬師堂改築記念碑の中でも「宝暦六年」に「二十六世」の記載のある棟札があると書かれているので,そこから逆算すればかなり古い時代からある寺院だと判断し,そのようにこのブログ記事を構成しました。
ただし,この記念碑の文をそのまま全部書き写すだけだと著作権法上の問題が発生し得るので,そのようにはしていません。写真から文面を判読すれば,誰でも理解できる平易な文で構成された優れた文が刻まれた記念碑だと思います。
医王寺の境内地は,高野台遺跡と呼ばれる縄文時代,奈良・平安時代,中世の複合遺跡の中に含まれていることは知っています。ただし,この遺跡の発掘調査資料のような詳細な公式資料を読んだことがないので,正確なことは何も言えません。
とはいえ,遺跡との関係を推測するとすれば,「高野」という遺跡名から,もともと名主や豪族のような力のある一族が館を設けた場所かもしれないというようなことは考えられ,医王寺の創始の当時においては(あくまでも建造物の機能の問題としては,例えば,戦国時代の城郭の寺郭の機能と似たような機能をもつ)武家屋敷の一部を兼ねた寺院だったかもしれないと想像することは可能です。しかし,客観的な史料を見つけられないのであくまでも空想の域を出ません。
空想だけでブログ記事を書くことが許されるとすれば,医王寺のすぐ南側にある郵便局敷地を含む方形の大きな屋敷区画は,鎌倉時代以降の館の地形または江戸時代の陣屋の地形のようにも見えますが,この場所は,特に遺跡として指定されているわけではなく,現代の区画整理の結果としてたまたまそうなっているだけかもしれないので,あくまでも空想の域を出ないということになります。
このブログ記事は,医王寺に伝わる資料を基礎としていると推定される記念碑の記載内容に依拠して書きました。中世に遡るという趣旨の主張には私も賛成です。
ただし,学術論文として精密に書こうとすると,そのような資料だけでは全く足りません。何十年かかっても全ての関連資料を丁寧に探索し,検討・吟味する必要があります。それが(私のような素人のブロガーではない)歴史学者のあるべき仕事です。
このブログでは,そのような意味で学術的な確実性をもったレベルのことを述べるためには,私がこれまで調べた資料だけでは足りないので,現時点では判断できないということを述べています。