桐生市新里町新川:善昌寺
過日,天台宗・新光太平山善昌寺(群馬県桐生市新里町新川)を参拝した。本尊は,阿彌陀三尊。
『善昌寺縁起(応仁記)』によれば,善昌寺は,大同元年(806年)に伝教大師最澄の弟子・宥海によって創建された寺院とされており,当初は,大同寺と称した。
その後,南北朝時代になり,越前藤島の合戦で戦死した新田義貞の首級を桃井次郎が密かに持ち帰って船田長門守義昌に預け,船田義昌が大同寺に葬り供養し続けたことから,船田義昌の名に因んで寺号を「善昌寺」と改めたとされている。
この「船田長門守義昌に預け,船田義昌が大同寺に葬り供養し続けた」と伝承されている部分は,より正確には,「船田長門守義昌の縁者に預け,船田義昌の一族の者が大同寺の境内に塔を建立し,代々供養し続けた」ということかもしれないとも考えられる。
また,群馬県地域創生部文化財保護課編『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-寺院編』(2022年)の284~286頁によれば,善昌寺(大同寺)は,延久3年(1071年)10月の火災により堂舎及び記録等を焼失し,文治5年(1189年)に源頼朝堂舎を再建し,元弘3年(1333年)に船田長門守入道善昌が没したことで寺号を善昌寺と改称したとされている。
善昌寺の本堂裏には新田義貞の供養塔がある。この供養塔はひときわ大きなものなのだが,その区画内には大小約40基の五輪塔が集められている。これらは,新田義貞の家臣の供養塔として理解されているようだ。
善昌寺は,新田義貞挙兵の地としても知られており,供養塔の前に建立されている『新田義貞公首塚之碑』には「義兵を起きて鎌倉攻めの時 当寺に武運を祈り 祈願ありて閼伽井の水を汲み軍神を祭り軍勢を集む。今の廟所は其節に旗を立て給う武者屯の地なり」と記されている。
なお,新田義貞の子孫である由良氏が常陸国の牛久に転封となったことから,曹洞宗・太田山金龍寺(茨城県龍ヶ崎市若柴町)にも新田氏累代の墓所がある。また,由良氏が牛久城内に祀っていた新田神社は,由良氏断絶後に他所に遷座し,現在の新田神社(茨城県つくば市下原)となっている。
善昌寺の境内地は,赤城山の裾野に相当する長大な斜面上にある。そのため,善昌寺の境内地からは現在でも相当遠くまで見渡すことができる。
宗教上のみならず,統治・支配や軍事のためにも極めて重要な場所だったことは疑いようがない。
善昌寺入口付近・門柱
門柱脇にある地蔵尊と庚申塔
門柱脇にある庚申供養塔など
参道
石段
山門前の石段
六角地蔵
六角地蔵
山門
本堂
斜め前から見た本堂
鐘楼
梵鐘
六地蔵
善昌寺の五輪塔群
新田義貞の供養塔とされている五輪塔
大小の五輪塔
同上
新田義貞公首塚之碑
善昌寺の縁起及び新田義貞と関連する伝承には若干の混乱があることが指摘されており,今後更に精密に学術的検討を加える必要性があるかもしれない。
しかし,そもそも,支配階級に属する者によって書かれた書物には最初から当然にバイアスがかかっているので,歴史的事実それ自体を正確に反映していなことことがあることから,いわゆる正史のような書物に書かれていることのほうが正しいという絶対確実な保証は存在し得ない。高校の歴史教科書に書いてあることの中には後に否定されてしまうことが満載の状態であり,まして,大学受験予備校の参考書等に書いてあることは,受験競争に勝つために合理的に再構成された空想上の疑似歴史のようなものであり,無論,日本国の歴史そのものではあり得ない。
そのため,結局,この問題は,解を得ることのできない問題かもしれない。
それでもなお,善昌寺の境内に極めて立派な供養塔(五輪塔)が残されていることは,客観的な事実だ。
この客観的な事実によって,善昌寺の累代の住職のみならず,(徳川将軍家を含め)それぞれの時代の為政者によって善昌寺と境内の五輪塔群が保護を受けてきたこと,だからこそ現代に至るまでこれらの五輪塔が残されることになったと考えることは可能だと言える。
あくまでも一般論として,(高校の教科書に書いてあるような記述の内容を含め)「大前提を疑う」ということなしに真理に到達可能な思考を開始することはできない。
桐生市:善昌寺の新田義貞公首塚
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