桐生市新里町:山上愛宕塚古墳の石室基底部(一部移築・復元)

過日,山上城址公園内の三の丸の標柱脇に一部移築・復元されている山上13号墳の石室を見学した。

山上愛宕塚古墳は,山上13号墳または新里村35号墳とも呼ばれ,両袖型横穴式石室をもつ径約30mの大きな円墳だったが,平成7年に発掘調査が実施された後,隠滅した。
古墳所在地だった場所は,現在では宅地等となっている。

もっとも,発掘調査の時点では,墳丘と石室の大部分が失われており,石室の基底部だけが残されていたとのことで,その残されていた石室の基底部が山上城址公園に移築・復元され,展示されている。

三の丸に保存されている山上愛宕塚古墳の基底部は,一見すると古墳の石室の基底部のようには見えないのだが,例えば,一ノ関古墳(群馬県伊勢崎市本関町)の石室の梯子状になっている墓道部分の構造と似ているような感じがしないわけでもないので,やはり,基底部の一部を復元したものなのだろうと思う。
なお,似たような梯子状の礎石配置が残されている遺跡として,小泉大塚越遺跡第3号墳(群馬県佐波郡玉村町飯倉)がある。この小泉大塚越遺跡第3号墳は比較的大きな前方後円墳なので,山上愛宕塚古墳もまた,本当は,円墳ではなく比較的大型の前方後円墳だったのかもしれない。
山上愛宕塚古墳と小泉大塚越遺跡第3号墳の被葬者は,基底部石材の配置形式から推測して,史書中の中では新羅系として伝承が記載されている百濟または伽耶諸国(金冠伽耶)からの渡来人だったのではないかと推測される。古代のある時期において,これらの諸国は,倭国と連合国の関係にあったと推論すべきであり,もしそうでないとすれば,白江(白村江)の戦闘が行われることはなかったと考えられる。
日本国の古墳時代に相当する時代の朝鮮半島にある古代遺跡に関しては,高久健二『楽浪古墳文化研究』(学研文化社,1995年),韓国考古学会編(武末純一監訳)『概説韓国考古学』(同成社,2013年)が参考になる。

江戸時代の元禄14年(1701年)に愛宕塚古墳の石室から運び出された石材は,元町橋という石橋に転用されたという記録が残されている。
現在,その橋は,石造橋ではなく現代の鉄筋コンクリートの橋になっているので,橋に転用されたという古墳由来石材を観ることはできないのだが,橋のすぐ近くに元町橋の供養塔が建立されている。
おそらく,今では失われてしまっている古墳石室内に蔵置されていた副葬品等から貴人の墓所だということがわかり,その霊を弔い,鎮魂するためにこの供養塔が建立されたのだろうと想像される。
この元町橋の供養塔は,桐生市の重要文化財に指定されている。

元町橋の供養塔の(公道をはさんだ)向いに2基の別の供養塔が建立されている。その2基の供養塔の基壇部になっている石材は,もしかすると愛宕塚古墳の石室材の一部を転用(二次利用)したものではないかというような印象を受けた。

元町橋の供養塔のすぐ近くには新里村37号古墳とも呼ばれる山上不二塚古墳(群馬県桐生市新里町山上)がある。


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三の丸の標柱がある場所


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山上愛宕塚古墳の石室基底部


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同上


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蕨沢川


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元町橋の供養塔


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元町橋の供養塔に向かい合って建立されている別の供養塔


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元町橋の供養塔付近から見た赤城山



 上州まったり紀行:桐生市新里町山上・愛宕塚古墳

 桐生市:元町橋の供養塔

 埼群古墳館_改:小泉大塚越遺跡第3号墳



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