二戸市福岡:九戸城跡(その1)
過日,九戸城跡(岩手県二戸市福岡)を訪問し,見学した。
九戸城は,九戸氏が居城にした戦国時代末期の大規模な城であり,最後の城主・九戸政実とその一族は,天正18年(1590年)の奥州仕置の際,豊臣秀吉の大軍によって滅ぼされた。
この戦闘により,豊臣秀吉による天下統一のための最後の大規模攻城戦が完了したと理解されている。そのため,日本の中世終焉の地として形容されることがある。
九戸政実と九戸城跡に関しては,二戸市史編さん委員会編『二戸市史 第一巻 先史・古代・中世』(平成12年)の670~712頁に詳細な解説がある。
九戸城の攻城戦は,九戸政実が謀略によって降伏し,開城したことによって終わったが,九戸政実と有力な武将が栗原まで連行されて処刑されたほか,城内にいた者が皆殺しになったとの伝承が広く知られており,また,その伝承の真実性を裏付けるような発掘調査結果もある。
昭和14年(1939),林檎狩りのために福岡(現在の二戸市)を訪れた土井晩翠は,九戸城攻城戦の悲惨な最後のことを聞き知り,「荒城の月」をつくったとされている。九戸城跡二の丸の搦手には,「荒城の月」の詩碑が立てられている。
この場所には,「九戸旧園梅花詩序」の詩碑もある。小倉鯤堂がつくった漢詩「九戸旧園梅花詩序」は,土井晩翠の「荒城の月」の着想にヒントを与えている可能性がある。
これらの詩碑のほか,國分謙吉農業試験場記念碑,金毘羅大権現の石灯籠,庚申二十三夜供養塔,聖徳太子碑も立てられている。元は九戸城跡内の別の場所にあったものを集めてこの場所にまとめたということのようだ。
金毘羅大権現の石灯籠は,浄土宗・成田山護国院安養寺の本堂で祀られている金毘羅大権現と関係するものではなかろうか。庚申二十三夜供養塔と聖徳太子碑も成田山護国院安養寺と関係するものではないかというような印象を受けた。一般に,浄土宗では仏教を振興した聖徳太子を崇敬しており,長い間にわたり聖徳太子碑が建立され続けたので,聖徳太子碑がある場所付近では(歴史上のどこかの時点において)浄土宗の信仰が行われたということを推知することができる。
現在残されている城跡は,九戸氏が滅亡した後に蒲生氏郷によって手を加えられたものが残されているのだとされている。その後,南部氏の居城となり,南部氏が盛岡に移った後,寛永13年(1636年)に廃城となった。
九戸城跡は,国指定の史跡となっている。発掘調査の結果等を踏まえ,松の丸以外の場所は史跡公園として整備工事中であり,本丸と二の丸が公開されている。
九戸城跡の三の丸所在地には城跡遺跡らしきものがあまりなく,盛岡地方裁判所二戸支部の建物敷地,史跡公園としての九戸城跡のエントランス広場(駐車場)とガイドハウスの敷地等となっている。
主に本丸と二の丸を見学した。九戸城跡の東側に位置する石沢館(外館)と若狭館は,まだ整備工事中であり,立入禁止となっていたので,少し離れた場所から見学可能な範囲内で見学した。
松の丸は一部だけ見学し,松の丸の西側段丘崖を階段状に掘削して構築された場所を境内地とする呑香稲荷神社,大作神社,九戸政実神社,浄土宗・成田山護国院安養寺,松の丸の北端付近を境内地とする八幡宮を参拝した。
JR東日本二戸駅にある九戸城・九戸政実関連の装飾展示
JR東日本二戸駅
JR東日本二戸駅にある観光案内図
二戸城跡ガイドハウス前にある九戸城跡の説明板
エントランス広場から見た本丸
本丸西側の堀跡(一部)
同上
同上
(写真奥は盛岡地方裁判所二戸支部の建物)
本丸北西側付近にある堀跡
(写真左手奥は盛岡地方裁判所二戸支部の建物)
遊歩道
三の丸の一部?
本丸北側の帯郭のような場所に登る階段への分岐点付近
階段から見下ろした三の丸方面の様子
本丸北側の帯郭付近の様子
本丸北側の帯郭のような場所から見た本丸(左手)
二の丸北端付近
二の丸(左)と本丸(右)との間の堀跡
石沢館(外館)の北端付近
北の方から見た石沢館(左)と二の丸(右)との間の空堀
南の方から見た石沢館(右)と二の丸(左)との間の空堀
二の丸搦手下付近
周辺案内図
二の丸搦手口
二の丸搦手にある土井晩翠「荒城の月」の詩碑など
國分謙吉農業試験場記念碑
金毘羅大権現
庚申二十三夜供養塔と聖徳太子碑
二の丸搦手口付近から見た石沢館(外館)
(右手隅は石沢館と二の丸東側部分との間の空堀)
石沢館(左)と二の丸東側部分(右)との間の空堀
二の丸東側部分付近から見た石沢館(外館)
二戸市教育委員会:日本中世終焉の地 国指定史跡 九戸城跡
文化庁国指定文化財等データベース:九戸城跡
文化遺産オンライン:九戸城跡
盛岡市:國分謙吉(こくぶんけんきち)
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