二戸市福岡:八幡宮
過日,八幡宮(岩手県二戸市福岡城ノ外)を参拝した。祭神は,誉田別命。
二戸市史編さん委員会編『二戸市史 第二巻 近世・近代・現代』(平成13年)の341頁には「もと宮野の西圃中に荒廃してあったのを,享保元年城の外に遷座してあったが,明治中期に火災により焼失。以後,呑香稲荷神社に配神合祀して現在に至っている」との記述があり,この記述にある八幡宮が後に復活して鎮座している神社なのだと考えられる。
この記述によれば,遅くとも享保元年(1716年)には存在していた神社ということになる。この記述の中にある「宮野の西圃中」が具体的にどの場所を指すのかは不明。九戸城跡の南側~南西側には二戸市福岡の八幡平という地区と二戸市福岡八幡下という地区があるので,そのあたりに九戸氏支配当時から鎮座していた神社を享保元年に南部氏が遷座させた神社ということになるのかもしれない。
他方,『二戸市史 第二巻 近世・近代・現代』の327頁には「成田山本堂内には本尊不動明王と佐貫金毘羅宮,宮野(旧福岡)八幡宮の御三体を祀り」との記述もあるので,明治時代に焼失した八幡宮は,浄土宗・成田山護国院安養寺でも合祀されて祀られていたことになる。
八幡宮の鎮座地は,安養寺本堂のすぐ北側の九戸城松の丸の北端の台地突出部に位置している。
八幡宮の鎮座地からは,極めて大規模な堀跡越しに九戸城本丸跡が見える。
九戸城の攻城戦において,浅野長政と蒲生氏郷もこのあたりから九戸城本丸の様子を眺め,どうやったら落とすことができるのかを考えたのに違いない。
九戸城は,結局,謀略により開城となり,栗原に連行された九戸政実は豊臣秀次の命により処刑され,九戸城内に立てこもった者らは皆殺しになっているのだが,その怨念や怨霊のせいかどうか,豊臣秀次とその一族・家臣は平穏な死に方をしていない。因果応報とでもいうべきか・・・
八幡宮の鳥居と社殿正面
神木の切株
八幡宮鎮座地から見た九戸城本丸跡北西側付近
八幡下地区付近から見える景色
馬淵川
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