二戸市福岡:呑香稲荷神社(その2)

過日,呑香稲荷神社(岩手県二戸市福岡)を参拝した。祭神は,宇迦廼御霊命。神明社(天照大神)と八幡宮(誉田別命(応神天皇))を合祀し,配祀している。
呑香稲荷神社に関しては,二戸市史編さん委員会編『二戸市史 第二巻 近世・近代・現代』(平成13年)の339~341頁に詳細な解説がある。
境内社として,大作神社と九戸政実神社が鎮座しており,戦国時代頃~明治維新頃におけるこの地域の歴史が濃縮されて保存されているような独特の場所となっている。

大作神社の祭神は,相馬大作(下斗米秀之進)。
大作神社の由緒等に関しては,呑香稲荷神社のホームページ内に詳細な解説がある。
相馬大作の家系である下斗米家は,平将門の子孫である相馬師胤の末裔とされている。
相馬大作と関係する様々な史料の解題は,史編さん室編『二戸史料叢書 第四巻 続二戸歴史物語』(平成22年)の中に収録されている。下斗米家と関係する史料は,史編さん室編『二戸史料叢書 第九巻 先人の足跡』(平成17年)の中に収録されている。

相馬大作は,南部藩の武士。『孫子』等の兵法に長け,帝政ロシアの南下・侵攻による蝦夷地(北海道)の征服・植民地化を憂慮し,地元の福岡(現在の二戸市)において当地の若い人々に学問を授けていた。相馬大作は,蝦夷地~樺太を探検して詳密な地図を作成した間宮林蔵とは親しい仲にあったと考えられている。

相馬大作は,参勤交代を終えて江戸から移動中の弘前藩主・津軽寧親の暗殺を企てたが失敗に終わった事件で有名。
当時,南部藩と弘前藩との間にはもともと非常に根深い確執のようなものがあったが,徳川幕府による対露国防策の遂行の中で,南部藩と弘前藩との関係が更に悪化していた。相馬大作は,その原因が弘前藩主にあると理解し,数名の同志と共に弘前藩主の暗殺を企てた。
この暗殺の企ては,密告により事前に発覚し,弘前藩主一行が予定されていた道とは別の道を通って帰国したため未遂に終わり,相馬大作は捕らえられて処刑された。暗殺を免れた弘前藩主・津軽寧親は,この事件の後に隠居することとなった。
この事件は,講談として世間で面白おかしくもてはやされただけではなく,当時の国際情勢の下においては当然のことであるが,西欧列強による日本国に対する武力侵攻・植民地化を警戒する当時の若者達を刺激した。例えば,水戸藩の藤田東湖は『下斗米將眞傳』を著し,また,吉田松陰は東北地方を歴遊の際に漢詩を詠んだ。

相馬大作の処刑後,盛岡城内に相馬大作を祭神とする光孝社が創始された。この神社は,明治維新の廃藩置県の際に廃社となった。
盛岡城内にあった光孝社とは別に,田中館圭右衛門は,相馬大作の遺品である短刀を自宅の庭に祀って相馬神社として礼拝していたのだという。
その後,昭和9年になって,呑香稲荷神社の境内に大作神社の社殿が建設され,現在に至っている。

境内にある下斗米大作遺墨碑には,藤田東湖選・吉田松陰筆『下斗米將眞傳』が刻まれている。下斗米將眞とは,相馬大作のことを指す。


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大作神社拝殿


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大作神社扁額


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大作神社本殿


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下斗米大作遺墨碑


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碑の説明板


田中館圭右衛門が祀ったという相馬神社に見られるような祖の短刀を祀る精神文化は,古墳時代に朝廷の命により屯田を重ねた武人の古墳に残された精神と完全に一致するものだ。

古代の古墳や箱式石棺の中に副葬品として置かれた太刀や刀子のような刀剣類は,そのことの何よりの証拠となっている。私は,日本国の成り立ちに関し,最初から武士(武人集団)によって構築された国家であると判断すべきだと考え,様々な機会にそのように述べてきた。

そのような時代は非常に長い間続いたのだが,戦国時代には刀剣よりも銃砲による戦闘の優位が証明されるような事態を経験することとなった。ところが,約300年にわたる徳川幕府の統治下の平穏が人々の感覚を鈍麻させることとなった。幕末の時期において刀剣・槍・火縄銃ではライフル銃のような近代的な銃や当時の最新型の砲には勝てないということを心底思い知った薩長藩閥は,明治維新を断行することにより徳川幕府を引退させ,そのような歴史を経験することによって,西欧列強に侵略されないような近代化された装備をもち,戦略と戦術を知っている軍を構築することに成功した。
しかし,刀を小銃に置き換えても,(少なくとも旧陸軍においては)武士による「戦(いくさ)」という直観的な感覚を捨てることはできなかったと推測される。旧海軍も基本的には九鬼水軍の後裔であり,陸海軍の航空機部隊は空飛ぶ騎馬兵だったと考えられる。非常に優れた先人は,当時既に「空戦」という概念をもっていたのだが,(参謀本部を含め)大方の将官にはそのことの本質が理解されていなかったのではないかと考えられる。仮に理解したとしても,日本国は,(当時においても現代においても資源がないので,自国の本来の領土内という制約内においては)理論を実装・運用するための物理的な条件を満たすことができない。

それはさておき,自動化された武器による戦闘という方式は20世紀を特色づけており,それは,基本的には現在でも持続している。

しかし,現代は,サイバー戦(電子戦)と宇宙戦の時代だ。そのことを理解しなければならない。

そして,そのことを理解すれば,(トポロジー的な発想の下においては)幕末の尊王攘夷思想に心酔した若者達が置かれた状況と非常に似た状況の下に現代の我々全てが置かれていることを理解することができる。現代の日本人は,例外なく,国家間の電子戦という現実の攻撃の下で生きている。

幕末においては,大型の砲艦の来訪が外国からの侵略や攻撃があり得ることを暗示していた。ところが,現代における特定の国家による戦術としてのサイバー攻撃は,目に見え,手にとることのできる武器ではない。
それゆえ,一般国民にはそのような極めて深刻な状況下にあることを認識することが非常に難しいかもしれない。しかし,当該分野の専門家やサイバー国防担当者の中でそのことを疑う者はいない。

しかし,現下のロシアによるウクライナに対する軍事進攻やイスラエルとハマス及びイランとの間の深刻な戦争状態の軍事上の特質を真面目に理解しようとすれば,サイバー戦に関する知識・理解が絶対に不可欠だということを知ることになるだろう。



 呑香稲荷神社



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