二戸市福岡:田中館愛橘博士ゆかりの家・槻陰舎(会補社学舎)・稲荷文庫
過日,「田中館愛橘博士ゆかりの家」として保存されている建物(岩手県二戸市福岡)を訪問し,見学した。
「田中館愛橘博士ゆかりの家」を見学したと言っても,公道から門と家屋を拝見し,説明版を読んだだけであり,家屋内を拝見したわけではないのだが,ある種の感慨を覚えた。
その門にはローマ字で記された表札があった。
この建物は,東京が空襲を受けたため郷里である旧福岡町に疎開していた際に起居していた家屋であり,戦後もしばしば帰省し,この家で暮らしていたらしい。
田中館愛橘は,南部藩の兵法師範という重要な役割を担う武士の家系の父・稲造と呑香稲荷神社(岩手県二戸市福岡)の神官家の家系の母・喜勢(旧姓・小保内)との間に生まれ,そのような精神風土をもつ武士の子として育った。
田中館愛橘の曽祖母は,相馬大作(下斗米秀之進)の実姉。相馬大作の家系である下斗米家は,平将門の子孫である相馬師胤の末裔とされている。下斗米家と関係する史料は,史編さん室編『二戸史料叢書 第九巻 先人の足跡』(平成17年)の中に収録されている。
「田中館愛橘博士ゆかりの家」のすぐ近くに会補社の学舎である小さな萱葺建物(槻陰舎)が保存されている。
現在保存されている槻陰舎の建物はとても小さいので,一人または二人程度で書籍を精読することには向いているかもしれないが,多数人が四書五経などを学ぶためには狭すぎる。実際には,田中館家の居室と小保内家の居室を会補社の集会場所として利用していたのではないかと想像される。
会補社に関しては,史編さん室編『二戸史料叢書 別冊 第四巻 続二戸歴史物語』(平成22年)の173~263頁に極めて詳細な解説がある。
『二戸史料叢書 別冊 第四巻 続二戸歴史物語』の177~178には会補社の創始者とされている「伝説の十七人」として,小保内常陸(孫陸),阿部順平(礼之助),一条文之助(肇),岩舘民弥,小笠原金右衛門(定一),小保内伊代治,欠端仁左衛門(常蔵),角館徳次郎(瀬兵衛),黒沢喜代七,黒沢善四郎,國分磯助,國分喜代助(閑吉),國分小八郎,田中館統太郎(稲造),足沢弥惣治(善右衛門),夏井勝太郎(淳九郎),安ヶ平平左七郎(耕蔵)の名が列挙されているほか,小倉鯤堂,小保内宮司(定身),菅勇作(治平),田中館礼之助(北村礼次郎)などの名が掲げられている。
九戸城跡二丸搦手には,九戸旧園梅花詩序碑が立てられている。元は本丸跡にあったけれども,発掘調査の関係等によりこの場所に移転されたものとのこと。この碑には,小倉鯤堂がつくった漢詩「九戸旧園梅花詩序」と田中館愛橘がローマ字で意訳した訳文が刻まれている。この漢詩は,小倉鯤堂の人生最高傑作なのだろうと思う。
会補社における教育活動のために収集され,使用された書籍は,稲荷文庫として知られている。この稲荷文庫は,天保2年に仙台で創立された青柳文庫よりも前に創立された公開図書館として知られている。
稲荷文庫に含まれていた書籍等は,現在では,呑香稲荷神社の境内にある保管庫の中で保存されている。稲荷文庫に関しては,『二戸史料叢書 別冊 第四巻 続二戸歴史物語』の188~191頁に詳しい解説がある。
会補社は,現在では,幕末における尊王攘夷思想と関係させながら,あるいは,明治維新以降における自由民権運動と関係させながら,歴史遺産の一種として理解されるのが普通だろうし,それ以上のことが求められることはないだろうと思う。普通の人にとっては単なる「古い建物」に過ぎないかもしれない。
しかし,会補社は,田中館愛橘の幼少時~明治維新頃までの間の武士としての精神的基盤の形成に大きな影響を与えた。
この建物は,その精神の一部が建造物というかたちで結晶化して現代まで残されているのだと理解することも可能だと思う。
公道から見た田中館愛橘博士ゆかりの家
門の表札
田中館愛橘博士ゆかりの家
田中館愛橘博士ゆかりの家の標柱と説明板
槻陰舎(会補社学舎)
(右手は呑香稲荷神社の石段,左上は社務所)
槻陰舎(会補社学舎)の説明板
呑香稲荷神社の境内地にある稲荷文庫の収蔵庫
稲荷文庫の標柱
九戸城跡二丸搦手にある九戸旧園梅花詩序碑
田中館愛橘は,天才と評価して良いレベルの天性の高度に優れた頭脳の持主であり,日本国における地球物理学,度量衡,光学,電磁気学,航空機工学,ローマ字などの当時における最先端分野における学術の礎を築くという驚くべき大量かつ重要な偉業をなしとげた人物。
その偉業は,脳の思考能力や記憶力などの優秀さだけでは絶対に達成され得ない。
田中館愛橘は,武士としての若い頃の鍛錬によって鍛えられた比類ない超絶的に強靭な精神力と体力があったればこそ,また,稲荷文庫に収蔵された豊富な書籍によって幼少時から基礎教養全般に通暁することができたからこそ,そのような偉業を成し遂げ得たのだと思う。
そのような知能,精神,体力そして十分な基礎教養が全部具備されなければ,学術上の偉人が生まれることはない。
加えて,そのような能力を活かすことのできる機会と環境に恵まれ,また,(資金面や職業の面において)支えてくれる人々が存在しなければ,その能力を持続的に発揮することができない。
それらの必須要素が全て満たされたという意味で,田中館愛橘は,神仏に選ばれた人材だったのだと思う。
田中館愛橘の父・稲造は,最後の武士としての死を選んだ。ただし,明治維新以前の主君である旧南部藩主のためにではなく,(薩長藩閥により)当時の福岡町及びその周辺の人々が弾圧されることを避けるために,そのようにしたのだと考える。
それは,戦国時代末において「九戸氏がどうして滅亡することになったのか」という点に関する歴史認識を正しく踏まえた上での武士道の顕現の一種であると理解したい。その死後,遺志を伝えるべく,会補社に学んだ人々やその後継者の中から多数の優れた人材が輩出し,学術の面においても多大の功績を残すことになった。
もし田中館愛橘の父が単なる熱血漢に過ぎなかったとすれば,危機に際して県令の介入を不可避なものとし,才能ある多数の若者をむざむざ死なせることになったかもしれない。
田中館愛橘の父の顛末とその死に際して田中館愛橘がとった行動の詳細に関しては,『二戸史料叢書 別冊 第四巻 続二戸歴史物語』の256~259頁に詳細な解説がある。
会補社の建物の上には呑香稲荷神社が鎮座している。その鎮座地は,九戸城跡の一部となっている。ここから先は私の空想に過ぎないが,幼少時の田中館愛橘は,九戸城跡という非常に大きな城跡遺跡を歩きながら,幕末の切迫した状況下において「自分は何をなすべきか」を真剣に考えたのに違いない。
頭脳の優秀さ,強靭な体力,強い精神力(特に集中力)があれば,困難を乗り越え,前人未到の分野を開拓し,様々な偉業を成し遂げることができる。
しかし,それは一般論に過ぎない。
具体的な人生において具体的などの分野においてそのよう偉業を成し遂げることになるかは,幼少時にどれだけ深く勉強し,徹底的に思索したか,そして,何を思索したのかによってかなり異なるものとなる。
田中館愛橘の偉業と比較すれば,私がこれまでの人生の中でやれたことはゴマ粒ほどの大きささえない極めて微細なものに過ぎないが,老いたりとはいえ,やれることはまだ残されているかもしれない。
呑香稲荷神社の参道脇に保存されている槻陰舎(会補社学舎)の前に立ち,気合を入れ直した。
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