成田市北羽鳥:香取神社
過日,香取神社(千葉県成田市北羽鳥)を参拝した。祭神は,経津主之命。
香取神社に関しては,千葉縣印旛郡役所編『千葉縣印旛郡誌』(大正2年)の復刻版である『千葉県印旛郡誌 後篇』(臨川書店,昭和60年)の753~754頁に詳細な解説がある。
この解説は,香取神社の宮司家である鈴木家に伝わる『鈴木家舊記』を典拠としている。『千葉県印旛郡誌 後篇』の解説を前提にする限り,香取神社の宮司は,熊野神社(現在の千葉県成田市南羽鳥の熊野神社)の宮司と同一人物と読める一方,香取神社には宮司が常駐していないので,熊野神社の宮司が香取神社の宮司も兼務しているということではないかと考えられる。
さて,『千葉県印旛郡誌 後篇』の解説によれば,かつて旃檀があり,その花の美しい場所があったが,あるとき,村人達が花を愛でて集っていたところ,見知らぬ人がいるのに気づき,尋ねると,「吾西國の役より香取の本宮への歸りなるに花の艶しさにしばらく立寄りのみなるぞ恐れ怪しむとあらん」と言い,その姿が見えなくなってしまったという。後に旃檀が枯れたので,村人は,それを神璽として宮殿を営み,毎年祭祀を営み奉祀するようになり,今日に至っている。
また,弘安5年(1282年),香取神宮(千葉県香取市香取)から分霊を勧請して,香取神社を祀るようになったとも言われているとのこと。
花の美しい場所は,「椿坂艶の岡」と称する場所だったので「艶山観音寺佛乗院」という寺院が建立された。この寺院は,文禄3年(1594年)に「得知山」と改められ,「南郷字鍛冶内」に移った。
この「観音寺」とは,『千葉県印旛郡誌 後篇』の756頁に解説のある天台宗・得山観音寺(千葉県成田市南羽鳥)のことを指すと解される。同書同頁では観音寺の所在地を「南羽鳥村字鍛冶内」としている。また,同書同頁では,観音寺の山号を「得山」としているが,「得知山」の誤植かもしれない。この観音寺は,天台宗・天竺山寂光院龍角寺(千葉県印旛郡栄町龍角寺)の末寺。文禄3年(1594年)の開基・創建。
同解説の中で引用されている『寺帳』と『村誌』によれば,後に盗賊により観音寺の僧が殺され,途絶えていたが,嘉永3年(1850年)に再興されたとのこと。
この観音寺の僧が亡くなった時というのは,天明8年(1788年)の火災による堂宇焼失の時のことを指すものと推定される。同書の756頁にある天台宗・豊住山常蓮寺(千葉県成田市北羽鳥)の解説の中で引用されている『鈴木家舊記』によれば,観音寺は,明暦年間頃には「南羽鳥鍛冶内にあり」,「寺院焼失住職病死」とのこと。
ちなみに,天明8年には京都で大火災が発生し,御所,二条城,東西の本願寺などの重要な建物を含め,かなり多数の建物が消滅している。
観音寺の所在地である「鍛冶内」という地名は,後に「谷田」と改称になったようだ。
この伝承に登場する見知らぬ人とは,香取神宮の神である経津主命のことを指す。
古代においては大きな内海の一部だった利根川を上り,(朝廷の命により)坂東一帯を軍事攻略するために進攻すると,西の方に進むことになる。
同じ内海を(朝廷の命により)東の方に進むと常陸の軍事攻略となる。それと関連する遺跡として,大塚古墳群(茨城県稲敷郡美浦村大塚~ 茨城県稲敷郡美浦村大須賀津)がある。多数回にわたり軍事攻略が行われたと推測される。
日本武尊(倭武尊)は,朝廷軍(倭軍=倭武)全体を神格化した表現であり,経津主命は,朝廷軍の一部である方面軍全体または方面軍の司令官に相当する武人を神格化した表現なのではないかとも考えられる。
「旃檀」とはセンダン(Melia azedarach)のことを指す。香取神宮の参道にある団子店の脇にもセンダンの木がある。
この香取神社の伝承には弘安5年に香取神社が祀られるようになったという由緒と寺院の縁起とが混在しているが,神佛習合の時代には普通のことだと思われる。
現在の香取神社の境内地には仏教的要素を示す石造物も残されている。それらの石造物は,極めて重要な文化財だと言える。
香取神社に奉納される獅子舞は,成田市の無形文化財に指定されている。江戸時代から続く獅子舞とのこと。
香取神社の境内地とその北東側に隣接する成田市豊住公民館の敷地を併せた土地は,全体として,北羽鳥北遺跡と呼ばれる遺跡包蔵地だったが,現在では隠滅している。
この遺跡に関する情報としては,ちば情報マップ上で「隠滅」と表示される以外には何もない。
情報はないけれども,香取神社の境内地周辺には,縄文時代~奈良・平安時代~鎌倉時代~戦国時代の遺跡が多数あり,その中には集落跡遺跡,城跡や古墳群なども含まれる。
地形や立地からしても軍事的・政治的にかなり重要な場所だったと推定される。
それらのことから,香取神社の境内地それ自体が元は何か非常に重要な遺跡だったことはほぼ間違いないことだろうと考えられる。
香取神社の東側には「廣の臺(広の台)」と呼ばれる城跡がある。『千葉県印旛郡誌 後篇』の740頁によれば,千葉氏が砦を設けた場所であり,嘉吉年間に羽鳥新介豊将が築城し数世を経たけれども,羽鳥豊勝の代に栗林義長(牛久城(茨城県牛久市城中)を居城とし,北条氏と盟約関係にあった岡見氏の重臣)に滅ぼされ,廃城になったとのこと。現況は山林となっている。
この廣の臺(広の台)の城跡との位置関係や地形などから推測すると,香取神社の境内地及び成田市豊住公民館の敷地も城の一部または羽鳥氏の屋敷地だったのではないかと思われる。
なお,羽鳥氏は,南北朝時代の熊野神社(現在の千葉県成田市南羽鳥の熊野神社)の神官・鈴木豊教の子孫とされている。
香取神社の鳥居と石段
鳥居脇にある北羽鳥香取神社の獅子舞の説明板
鳥居左側の青面金剛明王
鳥居右側の青面金剛明王
石段
社号標
参道
手水
拝殿前の鳥居
拝殿前の境内地の様子
拝殿
本殿
境内社と神木
同上
境内社(青面金剛尊・稲荷神社)
境内社(愛宕神社)
境内社(護国神社)
境内社(祓戸大神)
神輿庫?
十五夜待供養塔
成田市豊住公民館
余湖:広の台城(北羽鳥城・成田市北羽鳥字広の台)
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