ひたちなか市館山:浄光寺
過日,浄土真宗本願寺派・衆宝山無量光院浄光寺(茨城県ひたちなか市館山)を参拝した。本尊は,阿弥陀如来。
浄光寺に関しては,那珂湊市史編さん委員会編『那珂湊市史料 第四集』(昭和54年)の315~373頁に詳細な解説がある。特に,318頁には「二十四輩淳順拝図絵」(享和3年)の図が収録され,また,373頁には「真宗本願御旧蹟図」(寛延3年)の図が収録されている。
それらの図から,往時(江戸時代)における浄光寺の様子を知ることができる。素晴らしい。
浄光寺は,親鸞聖人直弟子二十四輩中二十一番・唯仏房の開基により貞応元年(1222年)に那珂郡枝川村(後の那珂郡川田村枝川・現在のひたちなか市枝川)において,「衆宝山無量光院常光寺」として創始された古い寺院とされている。西本願寺の末寺。
親鸞に感銘を受けて出家する前の唯仏房の俗名は,藤原隼人佑頼貞。吉田東伍『大日本地名辞書 第六巻 坂東』(冨山房,明治36年)の1208~1209頁は,「其先薩州梅原に居るを以て氏とす,頼貞当国に移住,親鸞の徳に帰し,貞応元年,法体して唯仏房と称し,那賀郡枝川村に寺を立つ」としている。
その後の浄光寺の歴史に関しては,史料によって若干異なる内容のことが書かれているので,論者により別の見解もあり得ると予想されるが,私なりに理解した内容に従うとすれば,浄光寺は,親鸞の教えに帰依した江戸重通から寄進を受け,天正2年(1574年),江戸氏の居城である(当時の)水戸城の近く(佐竹氏時代または徳川家時代以降の水戸城の「浄光寺郭」と呼ばれる郭の所在地・現在の水戸一高の運動場付近)に移った。
この点に関し,史料によっては,江戸氏ではなく佐竹氏が水戸城内に浄光寺(当時の寺号は常光寺)を移したとするものがある。
江戸氏に関し,佐竹氏に臣従していたと理解する立場を基礎とする史料では,江戸氏が行った事跡も佐竹氏の事跡としてまとめられてしまうことがあったのではないかと推察される。あるいは,単純に混乱が含まれている史料も存在するのかもしれない。
文禄3年(1594年),浄光寺(当時の寺号は常光寺)は,茨城郡常盤村に移転した。この点に関し,『大日本地名辞書』は「佐竹氏水戸城を修築し,寺地郭内となるに依て,常盤の地に移さる。浄光寺郭は即其旧地なり」と述べている。この「常盤」とは,後の東茨城郡常盤村のことを指すが,常盤に移転後の浄光寺(当時の寺号は常光寺)の正確な所在地は不明。
慶安元年(1648年),浄光寺は,徳川家光の寄進により,那賀郡湊村(現在のひたちなか市釈迦町・那珂湊駅付近)に移転し,その寺号を「定光寺」から「浄光寺」と改めた。
歴史上の前後関係から,水戸城の所在地付近に浄光寺の境内が存在した当時の浄光寺の寺号は「定光寺」だったので,その所在地を「浄光寺郭」と呼称するのは誤りであり,「常光寺郭」と呼ぶべきことになる。
元禄9年(1696年),浄光寺は,徳川光圀の寄進により,現在の地(ひたちなか市館山)に移転した。
元治元年(1864年),浄光寺は,天狗党の乱の際に兵火により堂宇を焼失し,明治2年に廃寺となった。
浄光寺の檀家らによる切なる寺院復立の願いにより,浄光寺は,明治11年に復立許可となり,その頃に堂宇が再建され,今日に至っている。
立派な堂宇をもつ寺院だと思う。
『那珂湊市史料 第四集』の350頁及び353頁によれば,浄光寺の墓域には雑賀衆の鈴木孫一の孫の墓があるとのことなのだが,よくわからなかった。鈴木孫一は,豊臣氏滅亡後,常陸国に逃れたらしい。常陸国に逃れた後,「鈴木」を「雑賀」と改め,水戸藩の徳川頼房の知遇を得るに至った経緯については,同書350~351頁に関連伝承が収録されている。
また,『那珂湊市史料 第四集』の352~353頁によれば,浄光寺の墓域には平国香の墓があるとのことなのだが,これもよくわからなかった。
山門
本堂
本堂屋根破風部
浄光寺縁起碑
客殿?
手水
通用門
境内地に登る坂道の入口付近にある標石
浄光寺が廃寺となった経緯については,『那珂湊市史料 第四集』の354頁に収録されている「湊村館山元浄光寺復立之儀願」と題する明治9年11月付けの文書及び同書364頁に収録されている「寺跡復立之儀再願」と題する明治12年12月24日付けの文書の中で非常に詳しく述べられている。また,334頁に収録されている『水門志』にもその関係の解説がある。
天狗党の乱とその後の関係者の処刑や,明治維新の際の廃仏毀釈など様々な要素が関係しているように思う。
一般に,現時点において,現代社会において普通だと理解されているような価値観だけを基礎として当時の人々の判断や行動を批判または非難することは簡単なことかもしれない。
しかし,当時の水戸藩内の様々な対立・抗争は,その家臣の中に徳川家と深い関係のある人々だけではなく,旧佐竹氏,旧大掾氏,旧江戸氏の旧家臣等も抱え込んでいたことから生じてしまった(政治力学上では)不可避の出来事だと考えられ,また,天狗党の乱に関しても(尊王攘夷派と保守的な勢力との間の抗争というあまりに単純化された図式だけで考えるのではなく)戦国時代以前から累積した様々な歴史上の出来事の延長上で理解しないと正しく評価できないということだけは確実だと思われる。
当時の関係者は,全員,その政治的立場こそ異なっているとはいえ,現代人よりもはるかに純心かつ真面目に思考し行動していたということも疑いようがない。
現代のようにインターネットを介した情報交換などなく,限られた仲間内で,限定された情報だけで思考し判断するしかないというのが常態であり,無論,世界の動静を本当に知る者がほとんど存在しない時代だったということを公平に理解しなければならない。
親鸞聖人を訪ねて:浄光寺
この記事へのコメント
コメントありがとうございます。
誇るべき立派な名刹だと思いました。
このブログ記事を書くために,手持ちの資料を全部読み,理解に努めました。
ますますもって,旧那珂郡だけではなく,常陸国の歴史を理解する上で極めて重要な寺院の一つなのだという認識を深めております。
中世~近世を専門とする歴史学者ではないので誤解等があるかもしれません。そのときは御指摘いただければ幸いです。