香取市佐原イ:八坂神社
過日,八坂神社(千葉県香取市佐原イ)を参拝した。祭神は,素戔嗚命。
千葉縣香取郡役所編『千葉縣香取郡誌』(大正10年)の376~377頁にその解説がある。
この解説によれば,「社傳に曰く初め字天王宮に在りしを元禄中今の地に移し市内の鎮土神と為す 一に天正以前に遷座すと」とのこと。
この「天王宮」との地名の場所がどこを指すのかに関し,八坂神社の鳥居脇にある由緒書には「諏訪上字天王宮」と明記されている。
この「諏訪上」とは,地理的場所としては,現在の真言宗・諏訪山荘厳寺の境内地付近のことを指す。
これらの点に関し,佐原市役所編『佐原市史』(昭和41年)の958~961頁では,現在の鎮座地に往古(天正以前)から牛頭天王祠があったとの見解,『佐原町史』の記述を引用して,(「天王宮」ではなく)「天王臺」という場所から遷座したとの見解など,様々な見解が紹介されている。
『佐原市史』の959頁には,元の鎮座地である「諏訪上忠霊殿向左」にあるという八坂神社の奥宮の石祠の写真が収載されている。この石祠には「享保壬子年」(=享保17年=1732年)と刻まれているとのこと。
ところで,かつて,神仏習合の時代においては,八坂神社の別当寺は清浄院という寺院(廃寺)だった。『佐原市史』では,天和3年(1683年)の「佐原村濱宿天王宮中興造立之節宮地寄進之状」と題する文書が紹介されている。
日付から考えると,奥宮とされている石祠が建立された時よりもかなり前の時代から清浄院を別当寺とする「天王宮」が存在したことになる。
寛政12年(1800年)には,神祇官への請願により「祇園感應天王宮」の額が下賜され,天保15年(1844年)の社殿再建・落慶の時にそれまでの尊号である「牛頭天王」を改めて「感應天王」と称することになった。そして,明治維新の神仏分離により,「感應天王」を廃止して「八坂神社」と称することとなり,現在に至っている。
八坂神社の境内地は,元はもっと小さかったようだ。
『千葉縣香取郡誌』の377頁の解説によれば,大正14年に御大典記念として境内地を拡張し,敷石や石燈篭などが寄付されたとのこと。現在の境内地は,そのようにして整備された後のものということになる。
八坂神社の境内には古い立派な樹木が植栽されているから,それらの樹木のある場所を含む範囲内は元からの境内地だったのではなかろうか。
『千葉縣香取郡誌』及び『佐原市史』によれば,八坂神社の境内地には境内社として水天宮(祭神・安徳天皇),琴平神社及び三峯神社があるとのことなのだが,現在ではそれらの境内社以外の境内社が増えている。
八坂神社の由緒・沿革及び関連祭礼に関しては,宇野功一「近世在郷町における祭礼の成立と展開-下総佐原村本宿の豪農・村組・町」国立歴史民俗博物館研究報告124集59~99頁(2005年)が参考になる。
鳥居
由緒書
拝殿
拝殿の屋根破風部
本殿
左側の狛犬
右側の狛犬
手水
社務所
神木
北西側の鳥居
手水
境内の古樹
境内社(水天宮)の鳥居
境内社(水天宮)の社殿
境内社(琴平神社)の鳥居と石祠
境内社(豊川稲荷神社)の鳥居と石祠
境内社(三峯神社)の鳥居と社殿
境内社(大山阿夫利神社)
境内社(火伏之神)
二十三夜供養塔?
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