つくば市島名:香取神社・月読神社と島名熊の山古墳群

過日,香取神社(茨城県つくば市島名)を参拝した。祭神は,産土神。

香取神社でありながら香取大神(經津主󠄁神󠄀)を祭神とはしていないので,創始当初においては無名の祭祀場所または「嶋名神社」だったけれども,その後の長い歴史の中で,(例えば,千葉氏や相馬氏が優勢だった時代の政治力学のような)何らかの理由により,「香取神社」を称することになったのだろうと推定される。旧地名である「熊の山」から推理すれば,過去の一時期には「熊野神社」を称していた可能性もある。

境内社として月読神社がある。扁額の記載から推測すると,この月読神社は,元はつくば市の中西地区に鎮座していたが,上河原崎・中西地区の大規模開発に伴い,現在の鎮座地に遷座して境内社となったようだ。
なお,上河原崎地区に隣接する下河原崎地区には下河原崎高山古墳群という非常に重要な古墳群がある。

香取神社の境内地にはケヤキの巨木があり,つくば市の文化財(天然記念物)に指定されている。

島名の香取神社は,約1000年前に利根川流域から入植した人々(六軒党)が産土神を祀ったのはじまりで,その人々の子孫が現在まで続いていおり,当時から続く祭礼が香取神社において現在でも挙行されている。
香取神社の参道に並ぶ石灯籠は,六軒党の子孫である人々が奉納したものとのこと。

約1000年前の時期は,藤原道長などの藤原氏の全盛期にあたる。
利根川河口域に鎮座する鹿島神宮や香取神宮の当時の神官もまた藤原氏の一族だったと考えらる。
『常陸國風土記』は,『懐風藻』に多数の漢詩が収録されている藤原宇合(常陸國の國守赴任当時)の関与の下で成立したものだという見解が現在では有力になっている。『常陸國風土記』以後における常陸國南部の古代史は,藤原氏との関係を抜きにして語ることができない。

現在のつくば市島名地区一帯は旧石器時代~縄文時代,弥生時代,古墳時代,奈良・平安時代~中世,近世の集落跡などの複合遺跡が多数存在する地域であり,現在では大部分が住宅地になってしまっている島名熊の山遺跡(香取神社の鳥居のすぐ南側付近の古代の水場祭祀場所遺跡・現況は道路及び住宅地)からの出土品などから,古代においてもこの地域が「嶋名」という地名だったと理解されている。
「嶋名」とは,「鹿嶋の名の下で知行する地」という意味だろうと思われる。

この島名熊の山遺跡の発掘結果及び周辺の遺跡に関しては,公益財団法人茨城県教育財団編『茨城県教育財団文化財調査報告380 島名熊の山遺跡 島名・福田坪一体型特定土地区画整理事業地内埋蔵文化財調査報告書XIX』(平成25年3月)にまとめられている。

香取神社の境内地の西端付近に小さな塚がある。この塚の脇には稲荷神社が祀られている。

確実ではないが,周辺の状況等から推察して,この塚は,仮に古墳だとすれば,「島名熊の山古墳群」を構成する古墳中の一基ではないかと思われる。
この島名熊の山古墳群は,『茨城県教育財団文化財調査報告380 島名熊の山遺跡 島名・福田坪一体型特定土地区画整理事業地内埋蔵文化財調査報告書XIX』の6頁にある遺跡分布図には含まれていない。しかし,谷田部町教育委員会・谷田部町文化財保存会編『谷田部町文化財報告書1 古墳総覧』(昭和35年)の19頁には記載があるので,『茨城県教育財団文化財調査報告380 島名熊の山遺跡 島名・福田坪一体型特定土地区画整理事業地内埋蔵文化財調査報告書XIX』の6頁にある遺跡分布図では(意図的なまたは過誤による)記載漏れの遺跡ということになるのだろう。

2024年9月6日現在,いばらきデジタルマップ上では,現況が「山林」とされておりながら現況では住宅地になってしまっている場所に「島名熊の山古墳群」の所在地がマークされている。
しかし,『茨城県教育財団文化財調査報告380 島名熊の山遺跡 島名・福田坪一体型特定土地区画整理事業地内埋蔵文化財調査報告書XIX』の11頁にある宅地造成前の地形図によれば,いばらきデジタルマップ上において島名熊の山古墳群の所在地としてマークされている場所は,川のように長く窪んで蛇行する谷津だったということを理解することができる。そのような(台地上ではない)窪地または低湿地に古墳があるわけがない。
それゆえ,いばらきデジタルマップ上の記載は(何らかの錯誤等に基づくものであり)不正確だと判断される。推定としては,『谷田部町文化財報告書1 古墳総覧』の4頁にある谷田部町古墳群分布図の中で「⑧」と手書き表示されている箇所がいばらきデジタルマップ上でマークされている場所とほぼ一致するので,単に(谷田部町当時における)遺跡番号の記載に過ぎなかったものを遺跡所在地だと即断し,いばらきデジタルマップ上で転記的に表示していることによる過誤の一種ではないかと考えられる。
なお,これらの点に関しては,つくば市の教育委員会に問い合わせれば正確な情報を得ることができるのだろうと思われるが,まだ問い合わせていないので,私の理解が間違っているということはあり得る。

現況の島名地区において,島名熊の山古墳群の所在地に該当しそうな「山林」が存在するのは,香取神社の境内地だけとなっている。

この地に入植した六軒党の祖先である人々は,古代から清い泉の湧く場所であり,古墳が残存していた小山のような場所を神聖な場所だと理解し,香取神社を祀ったのだろうと思われる。

香取神社の境内地は,「まもりの杜公園」という公園ともなっている。この「まもりの杜」との名称は,古代から現代まで続く六軒党の人々の願いを表現するものだろうというような印象を受けた。


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鳥居と石段


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参道と社殿正面


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手水


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社殿側面


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境内社(月読神社)


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月読神社の扁額


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月読神社の説明書


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ケヤキの巨樹


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同上


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「香取神社の大けやき」の説明板


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円墳様の塚状地形


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同上


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稲荷神社


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まもりの杜公園の入口付近(除草作業中)


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鹿島神社の鎮座地全景


『谷田部町文化財報告書1 古墳総覧』の19頁によれば,島名熊の山古墳群は,合計11基の円墳(径7~12m)からなる古墳群であり,その所在地は,香取神社の境内地~その北側部分を含む区域(旧地名・字熊の山1465~1469付近)だったようだ。
これらの古墳所在地が香取神社の境内地を除く場所であるとすれば,宅地造成により全て隠滅していることになる。

六軒党がこの地に移転してきた時期に関する伝承がどこまで確実なものでるのかは不明だが,仮に約1000年前であるとすれば,熊の山古墳群は,六軒党の最初の入植者が駆逐した先住者一族の祖の墓所だった可能性が高いと推定される。
他方,六軒党の移転時期が古墳時代またはそれ以前(約1300~1500年前)だとすれば,熊の山古墳群は,六軒党の最初の入植者だった人々(六軒党の祖)の墓所だったことになる。そのいずれであるかはわからない。
また,宅地開発の際に破壊された古墳に関して正規の調査が実施されたのかどうかに関しても,現時点では関連資料を見つけられないでいるので,よくわからない。

近隣の古墳としては,軽自動車検査協会茨城事務所土浦支所の所在地付近に道場塚古墳(一辺23mの方墳),径7mの円墳,径20mの円墳などがあったが,現在では完全に隠滅している。発掘調査が実施されたのか否かについては,現時点では関連資料を見つけられないでいるので,よくわからない。
これらの古墳中の道場塚古墳(方墳)からは蔵骨器2個が出土しているので,古墳時代の古墳ではなく,平安時代以降の墳墓(六軒党の祖の墓所)の可能性が高い。



 つくば新聞:神社 筑波地区

 時を巡るお寺神社の旅:香取神社



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