埼玉県比企郡ときがわ町西平:慈光寺(その3)
過日,天台宗・都幾山一乗法華院慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町西平)を参拝した。本尊は,十一面千手千眼観世音菩薩。
都幾川村史編さん委員会編『都幾川村史 通史編』(平成13年)の76~82頁,132~151頁,177~188頁,392~398頁には慈光寺に関する詳細な解説がある。
鶴岡静夫『関東古代寺院の研究』(弘文堂,昭和44年)の161~210頁には,慈光寺に関する考察結果が示されている。
慈光寺所蔵の法華経一品経・人記品第九及び法華経一品経・堤婆達多品は,国法となっている。
慈光寺の絹本着色徳川家康画像,絹本着色天海僧正画像,木造聖僧文殊菩薩坐像,木造宝冠阿弥陀如来坐像,木造千手観音立像,蔵骨器,慈光寺開山塔出土金具等は,埼玉県指定の文化財となっている。
慈光寺の観音堂,鰐口,木造十一面観音菩薩立像,日吉山王七社版木は,ときがわ町指定の文化財となっている。
慈光寺本堂前にあるタラヨウジュは,埼玉県指定の天然記念物となっている。タラヨウジュとは,タラヨウ(Ilex latifolia)のことを指す。
現在の慈光寺の本堂(阿弥陀堂)は,やや細長い帯状の区画内にあり,同じ区画内に鐘楼,庫裏,宝物殿などの建物が集まっている。その奥に写経の場である般若心経堂がある。
宝物殿は有料だが,慈光寺に伝わる貴重な文化財を拝見できる場所。訪問して良かったと思った。
ただし,宝物殿内で展示されている文化財等の写真撮影は禁止となっている。
般若心経堂から更に北西の方に斜面を登ると観音堂がある。立派な建物だと思う。
観音堂は,多数の優れた彫刻によって装飾されている。
観音堂の正面脇には「夜荒らしの名馬」と呼ばれる白い馬の像(伝左甚五郎作)が吊り下げられている。この馬像にまつわる伝承に関しては,仁王奇行及び丹仁奇縁の解説と併せ,慈光寺のホームページ内に解説がある。
この白馬の像を見ながら,伝承された「夜荒らしの名馬」の伝承とは別に,そもそも比企郡一帯には,蘇我氏や聖徳太子と関係する古代の牧があり,その後も牧の経営が続いて馬の産地だったために有力な武士団が形成され,そのことから馬と関係する文物を奉納するという習慣が形成されたのではないかというような印象を受けた。馬の存在及び牧の存在を示す直接的な遺跡は主として群馬県内で発見されているけれども,もともと現在の関東地方一帯の各所に牧があり,それを経営する蘇我氏の経済上・軍事上の重要な基盤となっていたのではないかと考えている。藤原氏は,そのような意味での蘇我氏の経済上・軍事上の基盤を奪い,自己のものとして再配分したと理解することが可能だ。これはあくまでも仮説に過ぎないのだけれども,そのような仮説を前提にすると,羊太夫の伝承と聖徳太子の行跡との奇妙な符合のようなものが明確に見えてくるように思う。
石段と山門
山門内側の様子
本堂(阿弥陀堂)の玄関
本堂(阿弥陀堂)の側面
鐘楼
タラヨウ(Ilex latifolia)
タラヨウの説明板
コンテリクラマゴケ(Selaginella uncinata)
西の方から見た般若心経堂
東の方から見た般若心経堂
如意輪観音
如意輪観音の説明板
弘長二年弥陀一尊種子板碑
弘長二年弥陀一尊種子板碑の説明板
猿八梵王
猿八梵王の説明板
観音堂の石段
観音堂の裏参道
観音堂
観音堂正面の彫刻(一部)
観音堂正面脇に安置されている夜荒らしの名馬
観音堂の説明板
石塔
地蔵菩薩など
慈光寺に所蔵されている小水麻呂経に関し,『都幾川村史 通史編』の80頁は,『天台別院都幾山慈光寺実録』を引用して,「発願したのは羊太夫で,その孫にあたる小水麻呂が祖父の遺志を継承して全600巻の書写を成し遂げ,慈光寺に奉納したので,『羊の大般若』とも称した」との伝承を紹介しつつも,「『羊太夫』伝説に仮託したものであり,信用の限りではない」と評している。
一般に,羊太夫の一族は,謀反の疑いをかけられ,朝廷軍によって討伐を受けることになった・・・朝廷軍は,しばしば苦戦したけれども大澤不動尊で戦勝祈願し,羊太夫の居城である八束城を攻略した朝廷軍によって全て誅殺された・・・ということになっている。
ただし,この伝承それ自体に関しては,八束城が古代の城だとは考えられず,鎌倉時代以降に構築された山城だと推定されることから,鎌倉時代~室町時代に発生した出来事が古代の紛争と関係する出来事として変形されて今日まで伝承されてきた可能性はある。
歴史上,羊太夫の一族が完全に誅殺されたのだとすれば,その子孫が生き残っているはずがない。しかし,羊太夫にちなむ伝承をもつ墳墓などが各所に残存しているので,羊太夫の一族の中で散り散りになって逃げ伸びた人々が存在したことは十分にあり得る。
例えば,多胡神社(群馬県高崎市上里見町)周辺の居住者は「羊太夫の子孫」と自認しているとのことで,そのとおりなのだろうと思う。
お塚古墳(埼玉県秩父郡小鹿野町般若)の被葬者と関連しても類似の伝承がある。
そうであるとすれば,羊太夫の子孫の中で名誉回復的に栄達を遂げ,大般若経600巻を書写・奉納できだけの力のある「上野國大目従六位下安部小水麻呂」の位にある者が出てきたとしても不思議ではないと考えられる。
多胡碑が1個しか存在しなかったという証拠は全くなく,複数のレプリカがあったことが確実であるし,現に存在しているので,現在多胡碑とされているものそれ自体もオリジナルのものではなく明治時代に復刻された石碑である可能性があり,それゆえに多胡碑の所在地も同時に複数存在していたと推定され,現に,曹洞宗・天祐山公田院仁叟寺(群馬県高崎市吉井町神保)の境内など複数の場所に存在する。
このことと関連して,もし羊太夫の一族が朝廷軍によって誅殺されたのだとすれば,多胡郡の正庁等の政治上の重要地点のシンボル的なものとして建立され続けたはずはない。普通であれば,羊太夫の一族が朝廷軍によって誅殺された時点において朝廷軍によって石碑それ自体が完全に破壊され,または,羊太夫縁故の者によって土中に埋められ,ほとぼりがさめるのを待ち,後に羊太夫の子孫の中から立身出世を遂げた者が出てきた時点で土中から掘り出されて再度建立されたと考えた方が合理的だ。
それゆえ,多胡碑の所在地を重視した上で,多胡郡の正庁の一部としての正倉遺跡として理解されている場所(前澤和之『上野国交替実録帳と古代社会』(同成社,2021年)参照)等が多胡郡の正庁の所在地であると考えるような発想方法は荒唐無稽である可能性がある。
それらの諸点を考えた上で,一般に,律令制度下における「大目」は官職の一種であり,(古代の國の規模等によって職務内容が異なっていた可能性はあるものの)現在の国家制度で言えば検察庁と裁判所の長を兼ねたような職種(江戸時代の奉行と似た職種)だと推定されるから,そのような名称の職にあった者は,当該地域においてかなり高位の者であったと評価できる。
仮に羊太夫の子孫に仮託して,別の誰かが小水麻呂経を奉納したのだとしても,奉納の時点及びそれ以降の時点において,羊太夫に対して積極的な評価が存在しなければ羊太夫の子孫が奉納したものだとされ続けることもなかったと考えられる。
羊太夫に対する古代~鎌倉時代における社会的な評価が「朝敵」という扱いのままだったとすれば,そもそも羊太夫と縁のある者からの奉納物として小水麻呂経が奉納されることはなかったと考えられる。
それゆえ,事の真偽は別として,少なくとも,羊太夫に対する平安時代及びその後の時代における社会的評価の変遷について丁寧に再検討してみるだけの学術的な価値はあるのではないかと思われる。
そのような再検討を踏まえた上,多胡碑に関しても全面的な見直しが行われるべきだろう。
慈光寺
ときがわ町:慈光山歴史公苑:慈光寺
ランキングの項目名はシステムによって自動的に設定される仕様となっており、固定的ではありません。任意の設定ができない仕様になっています。そのため,記事内容と関係のない項目名が示されることがあります。
項目名のアイコンをクリックした場合,PCやスマートフォンの設定をポップアップ広告禁止に設定していないと多数の商業宣伝広告が強制されることがあります。禁止に設定しておけば,商業宣伝広告の表示なしでブラウズできます。ただし,ブラウザによっては禁止設定が自動的に解除されてしまうことがありますので,ご注意ください。
この記事へのコメント