常陸太田市増井町:正宗寺と佐竹氏一族の墓所など(その4)

過日,臨済宗円覚寺派・萬秀山正法院正宗寺(茨城県常陸太田市増井町)を参拝した。

正宗寺本堂の北側~北西側に位置する墓地区画内には佐々宗淳(佐々介三郎宗淳)の墓,佐竹氏一族の墓所及び歴代住職の墓所がある。

それらの墓所がある墓地区画から山の斜面を下った西側(勝楽寺(廃寺)の遺跡所在地の北)には臨済宗・南明山正法寺跡遺跡とされている場所がある。
正法寺の境内地跡と推定されている場所の北側山裾に位置する奥の院のような場所には那珂通辰の墓とされる石がある。

公道から入る道の奥に「那珂通辰の墓」と「駐車場(P)」を示す標識が見える。
現況は,その標識から那珂通辰の墓所在地までの間の土地(正法寺の境内地跡推定地)は草ぼうぼうの状態で,道の有無がわからないレベルになっており,無論,駐車場もあるのかないのか全く分からないような状態となっている。やむを得ず,草をかき分けながら,那珂通辰の墓とされる石の所在地まで進むことにした。

正法寺境内地跡推定地の奥は,木柵で仕切られており,そこに那珂通辰の墓とされている石がある。

この石塔に関し,常北町史編さん委員会編『常北町史』(昭和63年)の260頁には,「明治22年に,久慈郡西小沢村大字岡田(常陸太田市岡田町)の小祝貞蔵が新たに墓石を建碑するまでは,五輪塔があったといわれる。現在通辰の墓石といわれるのは,古い五輪塔の一部である」と書かれている。
元の五輪塔なるものが誰を供養するための石塔であったのかは,全くわからない。

現在,那珂通辰の墓とされている石は,常陸太田市指定の文化財となっており,常陸太田市教育委員会編『常陸太田の文化財』(平成6年)の51頁にその解説がある。その解説と同文の説明板が現地に立てられている。
それらの解説文によれば,「佐竹貞義を西金砂城に迎撃して失敗した通辰の軍は敗走して増井の勝楽寺裏で一族34人と共に自害したとも捕らわれて斬られたとも伝えられている」とのこと。

南朝の楠木正家と北朝の佐竹氏との間の激しい戦闘に関しては,瓜連町史編さん委員会編『瓜連町史』(昭和61年)の250~261頁,『常北町史』の253~261頁に詳細な解説がある。楠木正家と共に佐竹氏と闘ったとされる那珂通辰に関しては,『常北町史』の260頁,『瓜連町史』の260頁に解説がある。那珂氏の出自に関しては,『常北町史』の239~253頁に詳細な検討結果が示されている。

那珂通辰の墓とされる石塔の脇には「那珂下総守藤原通辰之墓碑」がある。
この墓碑には「那珂下総守藤原通辰公墓碑雨除施設建立趣意碑」の中に「那珂通辰公の墓碑については,明治19年2月,私達の先達,小祝貞蔵,小祝雄次郎,小祝政吉,小祝健次郎連名による茨城縣令島惟精宛に碑表建設願が提出され,明治20年4月7日茨城県知事安田定則により願之趣聞届候事という許可がおりました。それにより寄進を募り建立された経緯がございます。然し約120年の時が流れ墓碑の傷みがはげしく・・・」と刻まれている。

那珂通辰の墓とされる石の手前付近には複数の小さな積石塚のようなものがある。
それらの積石塚のようなものがどの時代につくられたものであるかは全く不明。明治20年頃またはその後の時代に那珂通辰と共に死亡した臣下の者の様子を想像して順次復元的に構築された石造物(供養場所)の一種なのではなかろうか。


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正宗寺の墓地区画北西側を通る舗装道路


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交差点にある標識


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正法寺跡遺跡方面への道


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正法寺跡遺跡入口付近


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那珂通辰の墓・駐車場の標識


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正法寺跡南側部分(東の方から見た様子)


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正法寺跡遺跡北側部分(南東の方からみた様子)
(写真左手の方形の窪地は「益潟の池」の所在地?)


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正法寺跡遺跡の全景(北の方からみた様子)


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那珂通辰の墓所所在地
(正法寺の奥の院に相当する場所)
(この場所の西側隣地が「那珂通辰首洗いの井戸」所在地?)


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那珂通辰の墓とされる石


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説明板


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那珂下総守藤原通辰之墓碑


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那珂下総守藤原通辰公墓碑雨除施設建立趣意碑


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小規模な積石塚のようなもの


那珂通辰の墓石とされる供養塔が物体それ自体としては明治時代のものであるとしても,那珂通辰とその一族がこの場所に葬られたという史実があり得ることなのかどうかに関しては,別途検討の余地がある。

しかし,消極に解する。

そもそも,正法寺は,正宗寺及び勝楽寺と共に,佐竹氏の菩提寺であり,佐竹氏が秋田に去る前の時代において佐竹氏の一族ではない者の墓所が営まれることは,原則として,あり得ないことだったと考えられる。

常陸太田市史編さん委員会編『常陸太田市史 通史編 上巻』(昭和59年)の447頁によれば,正法寺の堂宇の中で江戸時代後半まで残されていた開山堂(昭堂)には,夢想国師の像,足利尊氏の位牌,佐竹氏の位牌が安置されていたという。また,仏殿には地蔵菩薩が祀られていたという。
そのような佐竹氏だけのための正法寺の開山堂から見て奥の院に相当する場所に佐竹氏一族以外の者の墓所があったとは到底考えられない。
特に,開山堂内に足利尊氏(北朝)の位牌が安置されていたことからすると,南朝のために闘った那珂一族と関係する供養塔等が奥の院のような場所に存在することは(南朝の那珂通辰とその一族の方が北朝の足利尊氏よりも偉いということになってしまうので)絶対にあり得ないことだと考えられる。

そもそも那珂通辰とその一族の者がどうして敵軍(佐竹氏)の菩提寺である勝楽寺付近で死ぬことになったのかについて,素朴な疑問をもたない者はいないだろうと思う。
このような点に関し,『常北町史』の260頁によれば,古くから諸説があったとのこと。現在でも決着のついていない歴史上の出来事の一つなのだろう。
この問題に関する唯一の史料は,『金砂両大権現大縁起』。
この史料は,佐竹側の立場で書かれたものだと考えられるが,那珂通辰の伝承に関するほぼ唯一の根拠となっている。

あくまでも仮説としては,例えば,佐竹側が「降伏すれば命は助ける」と嘘を言い,安心させるために仏寺である勝楽寺の境内近くまで連行し,そこで処刑したということは考えられ得ることだが,想像の域を出ない。
とはいえ,現実に起きた出来事としては,例えば,天正19年(1591年),佐竹義重が鹿島・行方郡の大掾氏一族(三十三館主)を欺いて太田城に招き,太田城内で謀殺したという歴史上の出来事がある。ただし,嶋崎父子については,現在の大子町上小川付近で謀殺との史料もある。
一般に,鎌倉時代~戦国時代の武家の間の闘争においては,冷酷なリアリズムが普通であり,仁義なき騙し討ちのようなことは日常茶飯事だった。例えば,太田道灌もそのようにして謀殺された。

他方において,『常北町史』の260頁は,正宗寺旧蔵の『永禄二年竹閑座物語誌』に「自光堂丑寅に那珂之一族廟有之」(光堂から見て北東の方角に那珂の一族の廟が存在する)とあるのを引用した上で,「一本松近くに古くは廟があった」としている。
この「光堂」とは,現在では存在していない勝楽寺脇寺・勝福寺の御堂のことを指すようなのだが,その正確な所在地は全くわからない。勝楽寺の境内にある脇寺なのか,別の境内地をもつ寺院なのかもわからない。
また,この那珂一族の廟の正確な所在地も不明であり,『常北町史』がその廟の所在地を「一本松近く」と比定する根拠も不明。

そこで考えてみると,廟の所在地は,「丑寅(北東)」なので,仮に光堂が勝楽寺の境内地にあったとしても,現在の墓地区画所在地~現在の正宗寺北側の山林所在地付近がその所在地だったと推定すべきであり,正法寺の北側ではないと理解するのが妥当ではないかと考えられる。

ところで,那珂通辰の子・那珂通泰は那珂一族の中で唯一生き残り,その一族は後に佐竹氏の臣下として奮闘し,その功績が認められて領地を与えられ,江戸氏の祖となり,水戸城などの立派な城を造営した(『常北町史』261~264頁)。ところが,佐竹の乱の間に江戸氏が独立し,その勢力を拡大したために,江戸氏は,佐竹氏に攻められ,滅亡している。
佐竹氏と江戸氏との関係はこのようなものだったので,佐竹氏が攻め滅ぼした江戸氏の祖(那珂通辰とその一族)の廟所があったと考えることは理解に苦しむのだが,あくまでも空想的な仮説としては,佐竹氏と江戸氏との関係が悪化する前の時点において,江戸氏との関係を強化するための手段として江戸氏を安心させるため,佐竹氏が,意図的に,勝楽寺の近隣に那珂一族の廟所を設けたというようなことはあり得たかもしれない。または,(政略結婚の目的で)佐竹氏の一族から那珂氏(江戸氏)に嫁に出した娘が亡くなった後にその者の供養のための廟所を設けたというようなこともあり得ることかもしれない。しかし,いずれも空想の域を出ない。

いずれにしても,『永禄二年竹閑座物語誌』に書かれている那珂一族の廟所なるものは,かなり古い時代に消滅してしまったらしく,江戸時代の史料の中には一切出てこない。
この那珂一族の廟なるものは,佐竹氏が江戸氏に対する攻撃を開始した時点または江戸氏を滅ぼした時点で完全に破壊されたのではないかと思う。
この点と関連して,『常陸太田市史 通史編 上巻』の446頁は,文化3年(1806年)の『正宗寺記』の記述を引用し(同書446頁に「正宗記」とあるのは「正宗寺記」の誤記),かつて,勝楽寺には10棟を超える庵があったけれども,文化3年当時においては「全てなし」という状態になっていたとしているので,江戸時代後半の時点では,庵の配置等が全くわからないような状態になっていたのだろうと推測される。

以上のような諸前提を基礎として想像してみると,現在では那珂通辰の墓とされている石の所在地において,仮に南北朝時代~戦国時代の供養塔(五輪塔)が存在したとすれば,それは,佐竹氏の一族である誰かのための供養塔(五輪塔)だったと考えるのが合理的だと思われる。
また,江戸時代末頃にその供養塔(五輪塔)が存在していたとしても,その五輪塔こそが,開山堂消滅後における旧開山堂の供養塔だった可能性がないわけではない。
ただし,現在では(その存否を含め)その五輪塔なるものがどのようなものだったのかを復元する方法がないので,どのような見解にしても憶測の域を出ることができない。

一般に,那珂氏及びその子孫である江戸氏が滅んでも,江戸氏の一族やその臣下の者の一族が完全に消滅することは基本的になく,生き残った人々は帰農して佐竹氏及び水戸徳川家の支配に服し,あるいは,神官や僧侶になったと考えられる。それらの人々が,何百年もの間,正々堂々と祖先を供養できる日がいつか来る日を待ち続けたということは十分にあり得ることだ。
そして,明治維新になると社会の価値観が大きく変化し,幕藩体制が存在しなくなり,正宗寺と勝楽寺の堂宇は完全に消え去って廃寺となった。佐竹氏の一族と主だった臣下の一族が常陸国を離れて秋田に移ってから約300年以上の年月が経過し,その影響に対して気を配るべき必要性がほとんどなくなってしまった。
明治20年という年は,那珂通辰の遠い子孫にとって,まさに,かつての佐竹氏の支配地において正々堂々と祖先(那珂通辰とその一族)を供養でできるようになった年だったのではなかろうか。

那珂通辰は,南北朝時代における南朝の有力武将であり,北朝を支持する有力武将である佐竹氏と闘って敗れた。
しかし,(佐竹氏に代わって常陸国の支配者となった徳川家の)徳川光圀により編纂された『大日本史』は,南朝を正当とする考え方を示していたので,江戸時代を通じて,(佐竹藩による支配当時とは逆に)徳川家の水戸藩では南朝を正当とする考え方が次第に優位となったと推定される。
そして,王政復古後の明治政府は,天皇家の正当性に関して南朝を正当とする政策を基本としたので,明治政府の官吏である茨城県令もまた南朝を正当とする見解に従っていたことは間違いない。むしろ,当時の茨城県令は,南朝が正しいという考え方を定着させるため,南朝ゆかりの遺跡を復興することや南朝ゆかりの地を聖地化することを積極的に推進していたのかもしれないとも考えられる。

それから更に年月を重ね,第二次世界大戦後に制定された現代の日本国憲法の下においては,思想・信条の自由,信教の自由を保障し,かつ,門地によって差別されないことを保障していので,佐竹氏と闘って敗れた将兵の子孫は,当該土地がかつて佐竹氏と縁が深い土地だったかどうかとは関係なく,当該土地の所有者との間で円満かつ適正に合意ができる限り,自分達の祖先を崇敬するための供養塔を建立できる。

とはいえ,私は,考古学及び歴史学の分野の専門家ではない。それゆえ,根本的な部分で間違っているということはあり得ることだ。

常陸太田市教育委員会は,那珂通辰の墓とされる供養塔に関し,直接の史料が全く存在しないのであれば論理的な整合性を重視した上で,慎重に再検討すべきだと思う。

このようなことをあれこれ考えながら,往時においては佐竹氏に保護されて絢爛豪華な伽藍を誇ったとされている正法寺の姿を空想しながら,その境内地跡遺跡所在地を眺め渡した。

(追記)

正宗寺,正法寺(正法院として正宗寺に合併)及び勝楽寺の往時の姿を復元するための仔細な考察をまとめた書籍として,常陸太田市正宗寺文化財保存協会編『正宗寺』がある。

この『正宗寺』という書籍の中では各種古文書や古図面等を基礎とする推論が提示されている。一貫性のある統一的な推論によってまとめられた書籍ではなく,幾つかの仮説的な推論が併記されたような体裁となっているので,そのような複数の異なる見解を併記した書籍であるという前提で読まないと,読者は混乱に陥るかもしれない。
ところで,この書籍の中に収録されている論考が推論の根拠の一つとしている安政4年(1858年)の古図面に関しては,その信頼性の評価に関し,明治3年になってようやく復興された方丈が描かれていることなどの(史実に反する)矛盾点を指摘している。この指摘は,まことに正しく,図面全体の信頼性を疑わせるのに十分である。そのような疑いがあることを認識しつつ,『正宗寺』では,境内伽藍の位置関係等を概括的に考証している。

あくまでも想像としては,元の図面は,安政4年(1858年)頃に作成された往時の伽藍図のようなものだったけれども,当時において実際に残されていた堂宇等は既に開山堂と仏堂(地蔵堂)しかなかったため,明治時代頃に(想像によって)多数の書き込みがなされた想像図が作成され,更に誰かが書写して今日まで伝えられてきたものなのではないかと考えられる。

安政元年(嘉永7年・1854年)及びその前後の数年間には(現代の東日本大震災と同程度またはそれ以上の規模の)巨大地震が日本国を襲い,その地震によって水戸藩の藤田東湖も圧死している。正宗寺及び正法寺の老朽化した堂宇が巨大地震の影響を全く受けなかったとは考えられない。逆に,残存物全てが崩壊した後だと推定するのが妥当だと思われる。

そのようにして後代(おそらく明治時代)に書き加えられたものの中には,「那珂通辰とその一族の墓」との記述も含まれていたのではないかと思われる。
この安政4年のものとされている古図面では,開山堂の奥に那珂通辰とその一族の墓所があるように描かれているが,具体的には小さな土饅頭が複数あるような場所として描かれており,五輪塔または石碑のようなものは全く描かれていない。ここに描かれている土饅頭のようなものは,(南北朝の時代に)「このようにして葬られたのだろう」ということを主張するための空想の産物だと考えられる。

以上を踏まえた上で,『常陸太田市史 通史編 上巻』の関連箇所の中には『正宗寺』の記述・考証を(無批判で)そのまま借用している箇所がある。しかし,『正宗寺』の中で一応検討されている史料の信頼性に関する考察の部分はほとんど反映されていない。「結論ありき」であり,問題点の指摘は黙殺されたのかもしれない。


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