常陸太田市増井町:正宗寺と佐竹氏一族の墓所など(その3)

過日,臨済宗円覚寺派・萬秀山正法院正宗寺(茨城県常陸太田市増井町)を参拝した。

正宗寺本堂の北側~北西側に位置する墓地区画内には佐々宗淳(佐々介三郎宗淳)の墓がある。佐々宗淳の墓所がある場所から更に階段を登ると,墓地区画の最上段に佐竹氏一族の墓所があり,それと向かい合うようにして歴代住職の墓所がある。

佐竹氏一族の墓所は,佐竹氏が秋田に転封となった後に残され,散在していた13基の供養塔(宝篋印塔)を第二次世界大戦後にこの場所に集めて整理した場所とのことで,もともとここの場所に並んでいたわけではないようだ。また,個々の供養塔(宝篋印塔)が誰を供養するためのものであるかは判明していない。
それゆえ,これらの供養塔に関し,茨城県または常陸太田市による文化財の指定も行われていない。

ところで,現在の正宗寺の墓地区画は,一般的な霊園として佐竹氏と無関係な者でも墓地をもつことのできる区画となっている。
しかし,佐竹氏が秋田に転封となる前の時代(江戸時代になる前の時代)においては,正宗寺が佐竹家の菩提寺であった以上,正宗寺の墓地区画は佐竹氏専用のものであり,佐竹氏の一族以外の者が埋葬されることは全くなかったと考えられる。
現存する13基の供養塔(宝篋印塔)は,元は比較的ゆったりとした間隔で並んでいたのではなかろうか。
しかし,時代の推移と共に佐竹氏一族の墓所と墓所の間隙が他の者の墓所で埋められるようになった結果,それらの供養塔(宝篋印塔)が相互にバラバラに点在するような状態となり,更に長い年月を経て,誰の供養塔なのかも判然としなくなってしまったのではないかと想像した。
一般に,墓石や供養塔というものは,それが自分の祖先のものだと信じて守る人々が誰もいなくなってしまうと,次第に風化し,単なる石塊の一種になってしまうことを避けられない。

他方,史実としては,正宗寺・正法寺・勝楽寺の歴史上の住職の中には佐竹氏の一族の者である僧が含まれている。
しかし,丁寧に墓碑銘を観察したわけではないので間違っているかもしれないが,ざっと拝見した限りでは,現在の正宗寺の墓地区画にある歴代住職の墓の中にはそのような佐竹氏の一族である歴史上の僧の墓石は含まれていないようだ。

それらの供養塔や墓石の前で合掌した。


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佐竹氏累代の墓所


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説明板

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歴代住職の墓所


Ypthima argus
墓地区画付近で見たウラナミジャノメ(Ypthima argus


Ypthima argus
同上



 茨城県立歴史館:佐竹氏ゆかりの正宗寺



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