常陸太田市増井町:正宗寺と佐竹氏一族の墓所など(その1)

過日,臨済宗円覚寺派・萬秀山正法院正宗寺(茨城県常陸太田市増井町)を参拝した。本尊は,十一面観世音菩薩。

正宗寺本尊の木造十一面観音菩薩座像は,鎌倉末期の作と推定されており,茨城県指定の重要文化財となっている。正宗寺に安置されている阿弥陀如来座像及び木造釈迦如来座像は,常陸太田市指定の有形文化財となっている。
正宗寺の総門(四脚門)は,室町時代のものであり,常陸太田市指定の重要文化財となっている。
正宗寺所蔵の絹本著色開山夢窓国師頂相,絹本著色月山和尚頂相,絹本著色十六羅漢像(16幅),紙本著色滝見観音図及び絹本著色如意輪観音図は,茨城県指定の重要文化財となっている。その他正宗寺所蔵の非常に多数の絵画,書等が常陸太田市指定の有形文化財となっている。
これら正宗寺の文化財に関しては,常陸太田市教育委員会編『常陸太田の文化財』(平成6年)の中に詳細な解説がある。

正宗寺の歴史に関しては,常陸太田市史編さん委員会編『常陸太田市史 通史編 上巻』(昭和59年)の268~271頁,401~404頁,443~448頁で詳しく解説されている。

正宗寺の本堂は,明治3年(1870年)に再建され,更に,昭和63年(1988年)に再建された。現在の本堂は,正面の左右脇に仁王像が安置されているという独特の構造をもつ建物となっている。一見の価値がある。

本堂と参道との間にはかつての三門の遺構である礎石が残されており,三門(山門)跡と本堂との間には「しあわせ橋」がかかっている。しあわせ橋は,現在は通行不可。
本堂前には狛犬のようにして巨大な蛙の石像が対になっている。

かつて,『常陸太田市史 通史編 上巻』の447頁によれば,かつて,正宗寺の三門(山門)には「本尊釈迦,十六羅漢を安置し,運慶の作と伝える仁王像が置かれ」ていたとのこと。


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総門(四脚門)


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総門の彫刻(一部)


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総門の彫刻(一部)


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総門脇にある正宗寺の説明板


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参道


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三門跡付近


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三門跡の礎石


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同上


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しあわせ橋


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本堂正面


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本堂左端の仁王像


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本堂右端の仁王像


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本堂前の敷石


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本堂側面(右手前は庫裏)


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本堂側面(左手前は収蔵庫)


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本堂前の蛙


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鐘楼


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祖先報恩碑


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柏槙


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柏槙の説明板


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正宗寺の周辺案内図


正宗寺は,延長元年(923年)に鎮守府将軍・平良将によって創始された律宗・増井寺が最初であるとされている。ただし,増井寺当時から十一面観世音菩薩を本尊とする寺院だったのかどうかは不明。

永承6年(1051年)または天喜5年(1057年),源義家は,京都明王院の快季僧正・二位僧都快弁を招いて前九年の役の戦勝(朝敵調伏)を祈願した際,律宗・増井寺を真言宗・大瑞山勝楽寺に改めた。これによって改められた「勝楽」という寺号は,源義家の戦勝祈願を示す呼称そのものだったと考えられる。
ただし,『常陸太田市史 通史編 上巻』の269頁は,佐竹氏が金砂合戦で敗れたために佐竹氏の旧領が二階堂氏の支配下にあった時期においては勝楽寺が天台宗の寺院または浄土教の寺院だった可能性を示唆している。

その後,勝楽寺は,慶長元年(1596年)に焼失し,廃寺となった。
現在,勝楽寺の境内地遺跡とされている場所は,正宗寺本堂の西約300m付近に位置する土地(主として農地,一部宅地及び道路敷地)の中となっているが私有地内のため見学しなかった。
地図で見る限り,この遺跡所在地の南側には溜池のようなものが存在するが,その形状から推測すると,現代の区画整理後に構築された溜池であり,遺跡という意味での勝楽寺の池そのものではないと考えられる。

勝楽寺の遺物としては盤陀石と呼ばれる石材が残されていたが,現在では撤去されてしまっており,何も残されていないとのこと。
一般に,盤陀石は,宇治平等院鳳凰堂庭園や毛越寺庭園(岩手県西磐井郡平泉町平泉大沢)のような,特定の一族の菩提寺として格式の高い大規模寺院の境内地に構築され,阿弥陀堂を中心的な堂宇とする浄土庭園に見られるものなので,勝楽寺の境内地にも阿弥陀堂と浄土庭園があったのだろうと推測されている(『常陸太田市史 通史編 上巻』の271頁,大澤伸啓・足利市教育委員会「東国の浄土庭園」日本庭園学会誌16号79~84頁(2007年)中の80頁も同旨)。
『常陸太田市史 通史編 上巻』の446頁によれば,かつては,「天柱峰」,「益潟池」,「度月橋」などの勝楽寺の伽藍・庭園と関連する地名も残されていたらしい。

正宗寺境内地の北西には池前遺跡と呼ばれる古墳時代~奈良・平安時代の集落跡遺跡があるが,この集落は,佐竹氏の一族と関連する集落または平良将の一族と関連する集落だったのではないかとも考えられる。この遺跡の呼称になっている「池前」との地名は,勝楽寺にあった寺院庭園の池と関連するものだとされている(『常陸太田市史 通史編 上巻』の271頁)。浄土庭園全体としては廃れてしまった後でも,池とその配石(盤陀石)などは長く残されていたのだろう。

勝楽寺の境内地の南縁付近には源氏川と呼ばれる川が流れている。河川改修工事により流路が往時とは異なるものとなっている可能性はあるが,概ねこのあたりを流れていたのだろう。

二階堂氏が勢力を失った後である弘安8年(1285年),佐竹行義は,勝楽寺の境内地内に禅宗寺院・南明山正法寺を建立した。この正法寺には阿波郷(旧桂村)の600貫の地を寺領として寄進したとされている(『常陸太田市史 通史編 上巻』270頁)。

さて,南北朝時代に北朝に大いに寄与した佐竹貞義の子・月山周枢は出家して臨済宗の僧・夢窓国師に学び,正宗寺の前身となる正宗庵を建立した。この正宗庵は,後に,佐竹義篤によって臨済宗夢窓派・正宗寺と改められ,また,勝楽寺も臨済宗寺院に改められた。
その頃,伽藍全体の整備が行われ,現在の正宗寺の北西側に正法寺の伽藍があり,正宗寺の西側に勝楽寺の伽藍があるように改められたらしい。『常陸太田市史 通史編 上巻』444頁では,正法寺の所在地に関し,「正宗寺境内の北側伽藍」と表現しているが,この表現が正しいとすれば,現在の正宗寺の本堂付近に正法寺の堂宇があり,現在の正宗寺の総門~三門付近に正宗寺の堂宇が存在したことになるが,表現が不正確なのではないかと考えられる。現在の正法寺の境内にある周辺案内図によれば,正法寺の境内は,正宗寺の本堂から見て北西側(正宗寺の墓地から見て西側・勝楽寺の所在地から見て北側)に位置していることになっている。
ただし,『常陸太田市史 通史編 上巻』444頁の「正宗寺境内の北側伽藍」との記述が「勝楽寺境内の北側伽藍」の誤記である可能性は残る。国土地理院地図によれば,現在の正宗寺の境内地の北側には舌状台地の細長い尾根状の土地があり,その現況は山林となっている。

最盛期の勝楽寺,正法寺及び正宗寺は,相当に見事な伽藍群を構成していたと想像される。

しかし,戦国時代になると状況が変化したようだ。『常陸太田市史 通史編 上巻』の446頁によれば,天正年間,佐竹義重は,正宗寺,正法寺及び勝楽寺の寺領を軍費のために徴用したため,正法寺と勝楽寺は急速に衰退し,江戸時代後半になると,「正法寺は開山堂を残すのみとなり,勝楽寺に至っては,建造物一さいが失われ,提案の盤陀石や,池汀跡をわずかに残すにすぎなかった」という状況だったとされている。現在,正法寺の境内地には開山堂も存在せず,荒地となっている。

他方,正宗寺は,菩提寺としていた佐竹氏が秋田に転封となった後においても水戸徳川家から保護され,多数の末寺を抱える寺院として維持されていたが,天保9年(1838年)に堂宇の多くを焼失した。
江戸時代以前から残されている建物は,総門(四脚門)のみ。
庫裏は,天保10年(1839年)に再建されたとのことなのだが,現在の庫裏は比較的最近に再建されたもののように見える。

正宗寺の境内には,推定樹齢600年の柏槙があり,常陸太田市指定の文化財(天然記念物)となっている。

ちなみに,『常陸太田市史 通史編 上巻』の402頁によれば,正徳2年(1712年),正宗寺仏殿の修造の際,大量の古銭が出土した。この古銭は,現在でも保存されており,銭壺と共に常陸太田市の有形文化財に指定されている。

(追記)

常陸太田市正宗寺文化財保存協会編『正宗寺』(昭和58年)には,盤陀石とその周辺のかつての勝楽寺境内地周辺を撮影した古い写真が収録されている。



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