土浦市藤沢:藤原藤房卿遺跡
過日,藤原藤房卿遺跡(茨城県土浦市藤沢)を見学した。
この藤原藤房卿遺跡は,茨城県指定の文化財(史跡)となっている。茨城県教育委員会のサイトでは,「この地に小田氏の支城があり,元弘年中(1331~1333)藤房卿はここに配流され,この地に到着の後,頭を丸めて時期の到来を待ったと伝えられています」と説明している。
遺跡の現況は,「髪塔塚」と呼ばれる方墳様の比較的小さな塚(一辺10m×10m・高さ2m)であり,頂上に小さな石祠が祀られている。塚の前には萬里小路藤房公遺址碑と小泉正好の歌碑が立てられている。
遺跡の所在地は,新義真言宗・小神野山惣持院神宮寺(茨城県土浦市藤沢)の境内地と同様,藤沢城跡の内部に位置しており,藤沢城が築城される前には古墳群が存在したかもしれない場所なので,古墳時代の古墳を二次利用したものである可能性が全くないわけではない。
ただし,藤原藤房卿遺跡の発掘調査は実施されていないようなので,この塚が南北朝時代頃に新規の塚として築造されたものであるのか,それとも,古墳時代の古墳を二次利用したものであるのかは不明。
ちなみに,藤原藤房(萬里小路藤房)の墓所とされる場所が全国各地にある。また,藤原藤房(萬里小路藤房)の出家と関連する多種多様な伝承が全国各地にある。
藤沢城は,小田氏治(出家後は小田天庵)が隠居先としてその身を置いた場所だとの見解がある。この見解を前提とした上で,隠居中の小田天庵が自分自身の不運と藤原藤房(萬里小路藤房)の不運とを重ね合わせ,その鬱屈した気持ちを紛らわせるために古墳時代の円墳または方墳を二次利用して整えた塚を藤原藤房(萬里小路藤房)の髪塔塚に見立て,日々眺めていたのではないか・・・そのことが,後になって藤原藤房(萬里小路藤房)の髪塔塚とする伝承のようなものが生まれるルーツになったのではないか・・・などと空想してみた。
なお,藤原藤房卿遺跡の所在地は,藤沢城跡の播磨郭の中心地付近とされている。
藤沢城全体の構造に関しては,茨城城郭研究会編『【改訂版】図説 茨城の城郭』(国書刊行会,改訂版2017年)の135~137頁にその解説がある。
北東の方から見た藤原藤房卿遺跡正面
萬里小路藤房公遺址碑
小泉正好の歌碑
説明板
東の方から見た様子
南東の方から見た様子
南の方から見た様子
藤原藤房卿遺跡入口付近・忠魂碑
萬里小路藤房公遺址碑の撰文者・三島中州(本名・三島毅)は,岡山県(備中国)の出身であり,明治時代の法律家・儒学者であり,大審院判事や東京帝国大学教授などを務め,二松学舎大学の前進である漢学塾・二松學舍を創立した。
三島毅は,新治裁判所(現在の水戸地方裁判所土浦支部)の所長として赴任していた時期がある。
萬里小路藤房公遺址碑によれば,新治裁判所判事だった当時,三島毅は,新義真言宗・小神野山惣持院神宮寺(茨城県土浦市藤沢)に保管されていた藤原藤房(萬里小路藤房)直筆の書簡を読んで深く感銘を受け,地元の人々から関連伝承等を聞いて回るなどして調べた結果,配流先は藤沢城内(神宮寺の近く)であり,現在では藤原藤房卿遺跡とされている塚が藤原藤房(萬里小路藤房)の髪塚に該当すると判定したのだという。
つまり,この塚を藤原藤房(萬里小路藤房)の髪塔塚であると事実認定し,そのように公言したのは,三島毅が歴史上最初ということになる。
萬里小路藤房公遺址碑の中に記されている記述の論証を基礎として考えてみると,三島毅が明治維新当時における藤沢城の遺構等を見学した上で,鎌倉時代~南北時代においても同様の規模・構造をもった城だったと考えていただろうということ,そして,神宮寺が最初から現在の所在地にあったという前提で過去の出来事と関連する場所の所在地を推定していたことは,疑いようがない。
しかし,南北朝時代には神宮寺の境内地は別のところ(鹿島神社(茨城県土浦市高岡)の南)にあり,室町時代頃に現在の場所に移転した。もしかすると,戦国時代に佐竹氏の勢力がこの地に及んだ後に神宮寺がこの地に移転したのかもしれない。
発掘調査が実施されているわけではないので,南北朝時代当時における藤沢城の正確な範囲・規模・構造等は全く分かっておらず,現時点において藤沢城の範囲だと理解されている地理的範囲よりももっと狭かったかもしれない。
最小の予測として,現在では鹿島神社(茨城県土浦市高岡)の境内地及び「新治ふるさとの森」という公園敷地となっている小さな山だけが南北朝時代当時における藤沢城だった可能性はあり得ることだと思う。現在,この場所に鹿島神社が祀られていることそれ自体が何らかの歴史上の経緯を反映するものだと考えられる。仮にその規模の構造物だったとすれば,城というよりも砦か館に近いものだったと考えられる。
しかし,南北朝時代には神宮寺の境内地は別のところ(鹿島神社(茨城県土浦市高岡)の南)にあり,室町時代頃に現在の場所に移転した。もしかすると,戦国時代に佐竹氏の勢力がこの地に及んだ後に神宮寺がこの地に移転したのかもしれない。
発掘調査が実施されているわけではないので,南北朝時代当時における藤沢城の正確な範囲・規模・構造等は全く分かっておらず,現時点において藤沢城の範囲だと理解されている地理的範囲よりももっと狭かったかもしれない。
最小の予測として,現在では鹿島神社(茨城県土浦市高岡)の境内地及び「新治ふるさとの森」という公園敷地となっている小さな山だけが南北朝時代当時における藤沢城だった可能性はあり得ることだと思う。現在,この場所に鹿島神社が祀られていることそれ自体が何らかの歴史上の経緯を反映するものだと考えられる。仮にその規模の構造物だったとすれば,城というよりも砦か館に近いものだったと考えられる。
三島毅が神宮寺で読んだという藤原藤房(萬里小路藤房)直筆の書簡が現存するのかどうかは不明。それ以外に直接の証拠となり得る古文書等が現存しているかどうかは不明。
藤原藤房(萬里小路藤房)が常陸国の小田氏に預けられたことは『太平記』に書かれているのだが,その程度のことしか書かれておらず,公式に認められている文献資料を基礎とする限り,藤原藤房(萬里小路藤房)の配流地(特に具体的な居住地)の詳細は現在でも不明。藤沢城がその場所だという見解は,三島毅の見解なのであり,検証可能な確実な証拠によって実証されているわけではない。
発掘調査結果により,小田城(茨城県つくば市小田)でさえ,鎌倉時代に築城された当時の規模は現在よりもずっと小さなものだったことが判明している。
この小田城の主郭には立派な庭園がある。もしかすると配流中の藤原藤房(萬里小路藤房)を慰めるためにつくられた庭園が最初のものだったのかもしれない・・・などと空想したくなる。
要するに,三島毅による推論(事実認定)は,鎌倉時代~南北朝時代当時における客観的な事実を踏まえたものではない。それゆえ,三島毅の推論は,絶対確実な見解であるとは言えない。
茨城県教育委員会:藤原藤房卿遺跡
埋もれた古城:藤沢城
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