東京都文京区大塚:筑波山から護国寺に移転された大仏など

過日,真言宗豊山派・神齢山悉地院大本山護国寺(東京都文京区大塚)を訪問した。

参拝した上で,護国寺の境内に安置されている金銅製の大仏(毘盧遮那仏)などを拝見した。筑波山から移転された金銅製宝篋印塔は拝見しなかった。

明治時代の神仏分離により真言宗豊山派・筑波山中禅寺知足院(茨城県つくば市筑波)の堂宇が破壊された際,境内にあった金銅製の大仏(毘盧遮那仏),金銅製の地蔵菩薩像,金銅製の金剛力士像なども破壊されそうになったけれども,護国寺が買い取り,護国寺の境内に移された。

現在,護国寺に安置されている金銅製の大仏(廬舎那仏坐像),金銅製の地蔵菩薩立像,金銅製の金剛力士像がそれらの仏像等に該当する。


IMG_3887.JPG
護国寺仁王門


IMG_3893.JPG
護国寺惣門


IMG_3901.JPG
護国寺不老門


IMG_3983.JPG
護国寺本堂


IMG_3923.JPG
大師堂
(背後地は豊島岡墓地)


IMG_3951.JPG
薬師堂


IMG_3911.JPG
鐘楼


IMG_3905.JPG
多宝塔


IMG_3908.JPG
月光殿
(月光殿の茶室はこの建物の裏手にある)


IMG_3904.JPG
大仏(廬舎那仏)


IMG_3985.JPG
同上


IMG_3902.JPG
同上


IMG_3915.JPG
地蔵菩薩像


IMG_3916.JPG
金剛力士像


茨城県つくば市教育委員会編『筑波町史 史料集 第五篇』(昭和58年)中には,筑波山神社拝殿の写真の下に「廬舎那如来像(護国寺蔵)」としてこの大仏の写真が掲載され,「地蔵菩薩像(護国寺蔵)」としてこの地蔵菩薩像の写真が掲載され,「金剛力士像(護国寺蔵)」としてこの金剛力士像の写真が掲載されている。

『筑波町史 史料集 第五篇』の12~14頁には,坂本正仁「常陸筑波山における神仏分離」大正大学研究紀要第65輯99~125頁・同66輯163~185頁を引用し,明治元年2月21日から明治3年9月30日までの間の出来事が記されている。
これによると,明治3年6月27日,筑波山神社祭主白川資義の代理・結束秀之丞から護国寺へ引渡される金殻などの受取りのために,護国寺の役者の代理が筑波に向かい,同年9月8日,引渡しを皆済したこと,その引渡し物の内容として,「廬舎那仏,金剛力士,地蔵菩薩などの唐銅類」が含まれていることがわかる。
なお,『筑波町史 史料集 第五篇』の34頁にある同論文の出典表記は正確ではないので,注意を要する。

現在では護国寺の境内に安置されている大仏(廬舎那仏)は,このようにして引渡されたもののようだ。

明治初年に大混乱の中で筑波山の神仏分離が断行され,筑波山中禅寺知足院の堂宇が破壊されてしまったことの原因に関し,『筑波町史 史料集 第五篇』の14頁は,坂本正仁「常陸筑波山における神仏分離」を引用し,その背景事情を縷々説明した上で,「殿輩・旧寺領農民・祭主の白川資義、そして復飾の護持院両役者などの諸勢力が錯綜し・・・」と述べている。この時の出来事の関係者やその子孫(近縁者)がまだ存命中だったため,明確な結論を出すことを控えたのだろうと推察される。

ところで,白川資義は,筑波山神社祭主とされている。
白川資義とは,花山天皇の孫・延信王を祖とする白川伯王家(旧華族・現在は断絶)の第30代・資敬王の二男(神祇官大副・白川資訓の弟)である白川資義のことを指す。
白川資義は,京都生まれであり,常陸国及び筑波山とは全く関係がなく,明治2年11月13日に初めて東京にやってきたようだ。「筑波山神社祭主」との称号は,東京にやってきた後に白川資義に対して与えられた肩書のようなものだったと考えられる。中禅寺知足院において,江戸時代から筑波山神社及びその祭主が存在したというわけではない。

本来,筑波山は,信仰上でも統治上でも,大掾氏(常陸平氏)や戦国時代の北条氏や佐竹氏,そして,江戸時代以降には徳川家との関係が非常に深い。
江戸時代において,京及び江戸と直接の関係をもつのは,真言宗という仏教組織上の関係を通じて,中禅寺知足院のみだった。

中禅寺知足院の神仏分離と関係する紛争の解決は,地元における宗教的伝統や地元民の希望を全く度外視した場で行われたことになると言えるだろう。

明治時代の初期においては,日本国の国家制度としての司法制度創始の動きがまだ具体化・現実化されておらず,西欧流の法制度及び裁判制度が導入されておらず,無論,「法の支配」の観念は存在しなかった。

しかしながら,日本国憲法が施行され,高度な教育を受け,その後も自力で生涯学習を継続して知性を高め続ける人々が地域の多数を占めるようになった現代社会においては,もしかすると,江戸時代や明治時代と比較して,基本的な状況が根本的に異なるかもしれない。

例えば,古代から現代に至るまで変わらない部分としては,「地元の民衆の古来の信仰心のようなものと反することは許されない」ということだと言える。これに対し,古代から戦前までの間と現代とで異なる点は,例えば,「氏子のような民衆が合法的に権利を行使するための適法な手段が格段に増えている」ということだ。
この点は,かつての封建社会では考えられないことだと言える。

一般に,神社の経営は,日本国憲法によって保障されている信仰活動の一部となっている。
そうであるがゆえに,税制上も優遇されている。
その反面として,例えば,純粋に経済活動という意味での営利性を前面に押し出した運営姿勢は,信仰活動との関係性がない活動または希薄な活動だとして税務当局によって判定され,あるいは,非常に基本的な部分での認識の相違から氏子の反発を招いても仕方がない。

このような意味での民衆(氏子など)による正当な権利行使の事例としては,筑波山神社の宮司の解任と関係する数年前の某事例がある。

一般に,日本国憲法の下にある現在の国家体制下においては,神社本庁といえども,(明治時代の国家神道とは異なる意味での神道もしくは神仏習合の修験道を基礎として,または,そのような修験道さえ飲み込んだものとしての真言宗の仏教の考え方を基礎として)1000年以上の歴史をもつ筑波山に対する信仰を変えることはできない。

そのことは,神社本庁の関係者自身が一番良くわかっているはずだ。



 真言宗豊山派



この記事へのコメント