東京都文京区大塚:豊島岡墓地
過日,豊島岡墓地(東京都文京区大塚)の門を見学した。
豊島岡墓地の敷地は,元は真言宗豊山派・神齢山悉地院大本山護国寺(東京都文京区大塚)の境内地の一部だったが,明治6年(1973年)に明治天皇の第一皇子・稚瑞照彦尊を葬ったのを最初に,陵墓に埋葬される天皇及び皇后以外の皇族専用の墓地として使用される皇室専用の墓域となって現在に至っている。
豊島岡墓地の門
豊島岡墓地は,日本国憲法下の関連諸法に基づき日本国の国有財産の一部となっているので,政治学の理論上では日本国民の共有財産の一種ということになる。
しかし,現在のところ,皇族及び関係者のみが立ち入ることができる場所であり,一般国民が立ち入ることはできない。豊島岡墓地の正面(南側)の門は,常に閉じている。豊島岡墓地への入口は他にもあるが,いずれも関係者以外立入禁止の表示がある。
豊島岡墓地内の様子を知ることはできないけれども,徳田 誠志・清喜 裕二「豊島岡墓地内埋蔵文化財確認調査報告」書陵部紀要〔陵墓篇〕 64号31~39頁(平成25年3月)に収録されている図面によれば,個々の墓所の多くは(陵墓と同様に)上円下方墳の様式による墳丘墓となっているということが分かる。宮内庁のホームページ上でもそのような解説が公表されている。
豊島岡墓地は,その社会的存在形態としては,古墳時代~奈良・平安時代に支配者階級の一族の円墳等が集合的に営まれた群集墓と同じものだと理解することができる。古墳時代~奈良・平安時代においても,当該群集墓によって組成されている墓域に葬られる一族以外の者は,当該墓域に立ち入ることができず,禁断の地となっていたと推定される。
この点に関し,日本国においては,古墳時代以来現在に至るまで,本質的には何も変わっていない。
なお,皇族の葬儀と関連する宗教に関しては,聖徳太子によって象徴されるように蘇我氏が仏教を篤く信仰して法隆寺を建立し,聖武天皇が仏教を国教と定め,以後の歴代天皇の正規の肖像画が仏教の菩薩であることを示す仏僧の姿で描かれるようになって以来,仏式により行われてきたと理解するのが歴史学における通説の見解となっている。
被葬者が皇族であったかもしれない古墳と全く不明の古墳を含め,古墳時代の古墳の副葬品の中にも仏式の葬祭と祭祀が挙行されたことを示す発掘品が極めて多数発見されている。例えば,綿貫観音山古墳(群馬県高崎市綿貫町)出土の水瓶は法隆寺の百濟観音像の水瓶と全く同じ形状のものであると同時に古代中国の仏教美術の様式の一部としての水瓶をそのまま伝えるものであり,また,観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町)出土の銅承台付蓋碗は仏教と関係するものだと理解されている。
なお,美術史上では「水瓶」とされているのでその呼称を踏襲しているが,本来は,酒器の一種だったと考えられ,古代中央アジアの石人像等に見られるワイングラスのような大型杯(聖杯)を掲げる王者(仏教では「釈尊」または「転輪聖王」)と一対になるものとして存在していたと考えられる。
蛇足だが,この水瓶の製造技法それ自体は,長い年月が経過する間に俗化し,遅くとも江戸時代には舟徳利に進化したのではないかと想像している。元の水瓶のデザインの当時から,例えば,馬にぶら下げて中央アジアの平原などを長距離移動する際にも内容物がこぼれにくいという特性をもっていたと考えられる。
他方,真言宗泉涌寺派・皇室御香華院御寺泉涌寺(京都府京都市東山区泉涌寺山内町)のホームページにある解説によると,同寺には「天智天皇から昭和天皇までの御歴代天皇,皇后,宮様方の御尊牌(御位牌),御尊像,御宸影等」が祀られているとのこと。
明治時代以降の皇族の墓所それ自体は豊島岡墓地にあることから,豊島岡墓地に葬られている皇族の位牌も泉涌寺で奉祀されているとすれば,泉涌寺は,皇族のための仏教(真言宗)による位牌安置のための寺院という位置づけになるのではないかと考えられるが,詳細は不詳。
そのようになった頃の日本国の首都の様子を眺めてみると,平城京には法華寺があり,同寺の境内は藤原不比等の邸宅跡地を二次利用したものだとされている。しかし,藤原不比等の館がもともと仏寺だった可能性はある。そうではないとしても,法華寺は,仏寺なので,「仏教による国家統治」という基本政策をこれ以上明確に示す事績はない。
また,法華寺の境内(藤原不比等の邸宅敷地)は,平城宮を直接に監視可能な地理的位置にあり,兵員・兵糧を蓄えることが可能なレベルの広大な敷地面積をもつ。それゆえ,法華寺は,貴族の単なる私宅ではなく,必要に応じて平城宮内における反対勢力を制圧するための軍を出動させるのに適した施設であり,平城京の政治上・軍事上の支配のためのものであったと考えられる。
渤海国からの使者も法華寺に投宿したのではなかろうか。仮にそうだとすれば,外交上の重要施設でもあることになる。
結局,当時における統治のための重要な判断・決定は法華寺(藤原不比等の邸宅)において行われ,平城宮では既決の基本方針に基づいて(律令制上の)上級官僚が実務的な仕事に精を出し,当時の支配階級の日々の生活を支えるための税の管理をしていた場所ということになるのではないかと考えられる。
『続日本紀』を読むと,当時における(統治者としての)天皇の影が非常に薄いというような印象を強く受けるが,それは,当時における実質的な統治がそのようなものであったためだと理解することは可能と思われる。
「朝廟」という語があるが,奥が深い。
宮内庁:陵墓
皇室御香華院御寺泉涌寺
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