深谷市本田:鹿島古墳群(その5)
2023年2月のことだが,過去に何度か鹿島古墳群の所在地(埼玉県深谷市本田)を再び訪問した。
何回かに分けて,この日に見学した結果としての記録の一部を紹介しようと思う。
なお,古墳の附番に関しては,埼玉県教育委員会編『鹿島古墳群』(昭和47年)には発掘調査した古墳(=現在では隠滅した古墳)の番号しか記載されていないので,他の関連資料等に基づき推定した附番を用いることにした。
このブログ記事内にある古墳の番号は,現行の深谷市遺跡地図上で表示される番号と一致している。
鹿島古墳群の53号墳の墳丘の北側約半分は,自然崩壊により崩落し,急峻な段丘崖となっている。
鹿島古墳群の51号墳の墳丘の北側半分以上は,自然崩壊により崩落し,急峻な段丘崖となっている。
鹿島古墳群の53号墳~50号墳所在地付近は,鹿島古墳群への西側入口となっている。この西側入口の南側に位置する現在では耕地となっている場所には20号墳と21号墳があった。20号墳と21号墳は,耕地整理に伴う発掘調査の後,消滅した。
埼玉県教育委員会編『鹿島古墳群』の78~84頁によれば,20号墳の発掘調査の結果,地上部の墳丘は著しく変形されていたけれども,元は東西20m×南北19mの円墳であることが判明した。また,横穴式石室があり,副葬品として,全長38.5cmの小刀,刀装具類,3口の刀子,多数の鉄鏃が発見された。
埼玉県教育委員会編『鹿島古墳群』の85~91頁によれば,21号墳の発掘調査の結果,横穴式石室の玄室内から人骨,現長80.5cmの太刀,全長35cmの小刀,現長6.80cmの刀子,刀装具類,多数の鉄鏃が発見された。
24号墳の被葬者と同様,20号墳の被葬者及び21号墳の被葬者とも,朝廷の命により屯田・支配した武人一族に属する者だろうと推測される。特に21号墳の被葬者は,武人一族の長者クラスの者だった可能性がある。
南東の方から見た53号墳
南の方から見た53号墳
東の方から見た53号墳の墳頂付近
53号墳の墳丘北側半分(崩落による段丘崖)
南西の方から見た53号墳
西の方から見た53号墳(左端は段丘崖)
南の方から見た52号墳
南東の方から見た52号墳
北東の方から見た52号墳
?
「川をきれいにしましょう!」
南西の方から見た52号墳(左)と53号墳(右)
北東の方から見た52号墳(左)・50号墳(中央)・51号墳(右)
東の方から見た51号墳(右端は急峻な段丘崖)
南東の方から見た51号墳
南の方から見た51号墳
南西の方から見た51号墳(左)と52号墳(右)
北の方から見た鹿島古墳群の西側入口付近
北の方から見た20号墳・21号墳所在地付近(耕地内)
北西の方から見た20号墳・21号墳所在地付近(耕地内)
(左端は50号墳)
南東の方から見た50号墳(左)・52号墳(中央)・53号墳(右)
北東の方から見た50号墳
北の方から見た50号墳
北西の方から見た50号墳
南東の方から見た50号墳
南西の方から見た50号墳
西の方から見た50号墳
西の方から見た50号墳所在地付近
50号墳の南側にある「鹿島古墳群」の説明板
50号墳所在地付近から見た3号墳(ズーム)
50号墳所在地付近から見た4号墳(ズーム)
深谷市:鹿島古墳群
古墳の森:鹿島古墳群
この記事へのコメント