つくば市北条:日向廃寺跡

過日,日向廃寺跡(茨城県つくば市北条)を見学した。

日向廃寺は,多気義幹の開基による私寺であり,宇治平等院鳳凰堂のような臨池式伽藍だったと考えられている。

全体的な景観としては,多気氏の城がある城山の前面を荘厳するための寺院だったと理解すべきではないかと思われる。

そのような目立つことをするから源頼朝から睨まれてしまったのではないかと推測される。一般に,権力者というものは,自分よりも豪華な暮らしをし,自分よりも優れた建造物や文物等をもつ者を毛嫌いし,(可能であれば)機会をみて消してしまうものだ。

特に,この寺院が宇治平等院鳳凰堂のような立派な建物だったことからすると,例えば,大江広元(中原広元)が源頼朝に対して「藤原道長殿になったつもりでおるのかもしれませんぞ」とか「鶴岡八幡大明神よりも偉いと言いたいのかもしれませんぞ」とか呟いたので,源頼朝が「この際,日頃多気との間で争いのある八田を上手に使って多気一族を追放してしまおう」と思ったのかもしれない・・・などとマキャベリ的な想像をしてしまいたくなる。
多気氏は,もともと常陸平氏の一族なので,源頼朝に従うことは本意ではなかったと推測され,源頼朝も当然そのように認識していただろうと思われるので,何か口実をみつけて常陸平氏の長者を圧迫・追放または抹殺し,その他諸々の者に対する見せしめとしようと機会をうかがっていたことは疑いようがない。その口実を与えてしまったという歴史解釈は成立可能なのではないかと思う。
一般に,軍事的にどうやっても勝てないことが明白なときは,とにかく取り潰しの口実を与えないように細心の注意を払い,低姿勢を貫き,愚人を装い続けるほうが上策だと言える。そのような生存のために不可欠の判断を妨げるのは,一般的には,自尊心や名誉心のようなつまらない欲望(我欲)であるのが普通だ。
他方において,もし,この寺院が多気城跡よりも高い場所にあり,かつ,多気氏の私寺ではなく京・奈良の寺院の末寺だったとしたら,更に別の歴史があったかもしれない。しかし,歴史に「もし」は許されない。

現在では,立派な寺院があったことを想像させるような構造物が展示されているわけではないが,関連資料を丹念に読んで理解すれば,極めて重要な遺跡の1つだということを理解することもできる。

なお,日向寺という寺院があったわけではなく,多気氏の滅亡と共に寺号が忘れ去られてしまった寺院なのだと思う。

日向廃寺跡は,遺跡の背後にある城山が一部崖崩れを起こし,埋没してしまったために今日まで遺跡全体が保存されることになった。
もしかすると,多気氏の没落時に強制的に解体され,残された基壇も裏山の斜面を意図的に崩して埋められてしまい,そのようなものは最初からなかったということにされてしまった寺院なのかもしれないとも考えられる。


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北西の方から見た遺跡全体の様子


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西の方から見た遺跡全体の様子


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南西の方から見た遺跡全体の様子


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遺跡東側部分の様子


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説明板


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礎石


Spodiopsar cineraceus
日向廃寺跡で見たムクドリ(Spodiopsar cineraceus



 週末は古墳巡り:日向廃寺跡 つくば市北条



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