つくば市神郡:六所皇大神宮霊跡(旧六所神社)

過日,六所皇大神宮霊跡(茨城県つくば市神郡)とその周辺を訪問し,拝見した。

境内の石碑等に記された由緒(縁起)を読むと,天照大神を祭神とする神社だったようだ。
一般に,本地垂迹説によれば,天照大神(大日如来)の本地は廬舎那仏となるので,六所皇大神宮霊跡(旧六所神社)に至る道の入口にあたる場所に六所大仏が建立されていることは,(本地垂迹説では)矛盾なく説明できることになる。

六所大神宮は,一般的には「六所神社」として知られている。江戸時代までは神仏習合を前提とする「六所大明神」だった。六所大明神は,神社であると同時に仏寺でもある。
往時における六所大明神の絵図は,財団法人日本地図センター『つくばの古絵図』(2006年)の48頁に収録されている。同じ絵図を原図とする六所大明神の絵図が六所大仏の脇にある郷土の歴史碑の裏面に刻まれている。

この絵図では,六所大明神の「拝殿」の奥に2棟の小さな「本殿」が並んでいるように描かれている。
六所大明神の拝殿は現在の石段を登った平坦地付近にあったのではないかと考えられる。この平坦地には円筒形の石碑(六所皇大神宮舊跡碑)がある。これは,災害により明治3年に倒壊した「大鳥居」の石材の一部を転用した二次利用物として知られている。その大鳥居が所在した場所は,ここではない。大鳥居が倒壊した際,地下から銅鏡が発見され,その銅鏡は,現在では筑波山神社に保管されているとのこと。坂上田村麻呂が東征の際に銅鏡を埋めたとの伝承があるそうで,その銅鏡に該当するとの見解がある。
六所大明神の拝殿があったと考えられる平坦地の奥には2つ目の石段があり,その石段を登った場所付近に六所大明神の2棟の本殿が並んでいたのではなかろうか。2棟の本殿は,伊弉諾神(本地・千十観世音菩薩)と伊弉冉神(本地・聖観世音菩薩)だったのかもしれない。
絵図では本殿の更に奥に大石があるように描かれている。現在でも存在する要石がそれに該当すると考えられるが,この要石が明治時代以降に移動されたものではないとすれば,絵図の配置に多少の誇張があることになる。

他方,この絵図中にある「小池」の所在地は,現在でも小規模な貯水池となっている場所に相当し,「随神門」の所在地は,六所児童館の南にある「つくタク」の乗場付近(三叉路付近)に相当し,大鳥居の所在地は六所大仏の西側道路上またはその周辺だったと考えられる。

六所大明神の参道は,全体としてみると拝殿付近から現在の六所大仏付近まで南北にほぼ直線状になっていた。しかし,現在では六所皇大神宮霊跡の石段の南側にあった参道の一部が廃止されて荒れた崖地のようになっている。この崖地は人工的に生成されたもののように見える。その崖地の南側には六所児童館や民家の敷地等となっている。そのため,現在の石段のすぐ南に位置する旧参道部分を探訪することは不可能になっている。旧参道中の旧境内地直前の部分が廃止されている理由は,よくわからない。この六所児童館の所在地は,かつては社務所等があった場所であり,そこから参拝のために参道を登り,石段の前に至ったのではないかと想像される。
現在では六所大仏~六所皇大神宮霊跡入口の標柱のある場所手前(南東側)との間の道路となっている場所は,江戸時代にはその道路の東西両側に松並木のある六所大明神参道だったようだ。この六所大明神の参道の両側にあった松並木だった場所は,現在では民家敷地等の一部になっている。六所神社(六所大明神)が廃止になった後にそうなったのだろう。
参道の東側に流れる水路は,(区画整理により流路が多少変わっている可能性があるが)現在でも存在しており,六所大仏のすぐ東側をほぼ南北に流れている。

要するに,六所大仏から六所皇大神宮霊跡までの土地一帯全部が(江戸時代においては)六所大明神の境内地及び参道だったと理解するのが正しい。
一般に,明治維新後の国家神道のみを前提にして歴史を理解しようとすると混乱してしまうこととなりかねない。あくまでも一般的な教養や学術上の問題としては,それぞれの時代におけるその当時の人々の信仰の在り方を理解し,それを前提としてどのようなところだったのかを想像または推定する必要がある。

六所神社(六所大明神)は,明治政府による神社統廃合の流れの中で,明治41年に廃止された。境内にある由緒碑等によると,旧六所神社の元氏子の大半は筑波山神社(茨城県つくば市筑波)に編入されることとなった。六所大神宮霊跡にある縁起碑等の文面によると,六所神社の神霊は蚕影神社(茨城県つくば市神郡)に合祀されたことになっている。しかし,奣照修徳会のサイトにある説明によれば,六所神社の神霊は現在では奣照修徳会本部(東京)に遷座したとのこと。

六所皇大神宮霊跡(旧六所神社)の境内地には新しい祠等も建立されている。境内地全体としては,霊跡保全修徳会という団体が管理している。

旧六所神社に関しては,筑波町史編纂専門委員会編『筑波町史 上巻』(平成元年)の195~197頁に解説がある。
この解説の中では,筑波山神社の里宮は元は飯名神社(茨城県つくば市臼井)だったけれども,徳一上人によって仏教が筑波山一帯で興隆した後に,筑波山神社の里宮が六所神社に遷移したのではないかとの仮説が開陳されており,非常に興味深い。なお,同書195~197頁でいう「筑波山神社」とは,(建造物としての社殿ではなく)御神体としての筑波山それ自体のことを指す。
また,同書196~197頁の脚注を頼りに関連古記録等を丹念にトレースすると,六所神社(六所大明神)の往時の姿が少しだけ見えてくるように思う。


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六所皇大神宮霊跡の標柱(側面)


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石段前付近にある小駐車スペース
(この場所の崖下が六所児童館所在地付近)


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石段


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六所皇大神宮舊跡碑
(明治3年に倒壊した石鳥居の石材の二次利用物)


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六所皇大神宮と石柱の由来碑


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六所皇大神宮霊跡縁起碑


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修徳碑


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六十周年記念碑


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石垣と手水


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六所皇大神宮霊跡(旧六所神社)
(手前の平坦地付近に六所大明神の拝殿があったと考えられる)


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六所皇大神宮霊跡(旧六所神社)の側面


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六祖神霊碑


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背後にある大石(要石)


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六所大神宮跡碑


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高木奣照大人尊之碑


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司官御霊社


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新魂宮


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参拝順の説明板


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天照大神御腰掛の石


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石祠(稲荷社?)


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石仏(六所大明神当時からの石地蔵?)


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空堀のようなもの


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同上


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六所の滝に続く山道


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同上


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山道の下を流れる沢


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六所の滝付近の沢


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六所の滝


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 奣照修徳会:六所皇大神宮霊跡地

 六所神社跡・かって筑波山神社と春秋の遷座

 神が宿るところ:六所皇大神宮霊跡地



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