東京都文京区白山:大震火災記念石と築山

2024年2月29日のことだが,小石川植物園(東京都文京区白山)の敷地内にある大震火災記念石を見学した。

この記念碑は,関東大震災の折,この場所に避難してきた人々が居住していたバラック建物が次第に撤去された後,その記念として立てられたものとのこと。現代では,都市と人口の規模が関東大震災の当時とは全く異なっており,もし同程度の被害が発生する巨大震災が起きたと仮定した場合,(金儲けのために緑地や畑地等を徹底的に宅地化したために)大火災等から逃げる場所が実質的には既に存在しないので,東京都区内の居住者はほぼ例外なく死亡することになるかもしれない・・・などとかなり恐ろしい空想をめぐらせた。

この記念碑のすぐそばにやや大きな築山がある。塚または古墳のように見えるのだが,現時点では塚とも古墳ともされていない。

このあたりには御殿町古墳という円墳があったことになっているが,普通の考え方によれば,旧司法研修所分室(現東洋大学京北高等学校)にあったとされており,東京都文京区の遺跡所在地区上でもそのように表示されている。それゆえ,大震火災記念石の近くにある築山は御殿町古墳ではない。

古い地図(図絵)を見ると,遅くとも江戸時代には存在していた築山のようで,明確ではないけれども御堂が建立されていたように示されているものもある。そして,関連資料等によれば,承応元年(1652)に現在の小石川植物園・日本庭園所在地付近に白山御殿が造営される際,貝塚の上に造営された古墳の上にあった簸川神社を他所に遷座させたということになっている。古墳それ自体が破壊・削平されたのかどうかは,記録上,明確ではない。
そこで古地図等を調べてみると,白山御殿の所在地は,段丘下の日本庭園部分だけではなく段丘上の大震火災記念石付近も含まれていた。そこで,
貝塚の所在地を調べてみたところ,縄文時代の貝塚である小石川植物園内貝塚の所在地は,段丘下ではない段丘上であることがわかった。現在確実に貝塚所在地だったと理解されている場所は温室所在地付近なのだが,そこしかないということは全く考えられない。温室周辺が確実な貝塚所在地とされているのは,温室の基礎工事のために少し深いところまで掘り下げられたことがあることによる結果的なものに過ぎない。
実際には,段丘上に位置する小石川植物園の敷地のほぼ全部が貝塚遺跡の包蔵地であると理解するのが正しいと考えられる。東京都文京区の遺跡所在地図には貝塚としての記載が一切ない。
しかし,この貝塚の存在は,モースの時代から広く知られていることから,遺跡所在地図に記載がないのは,単純に,担当者の失念等のミスによる結果だと思われる。

小石川植物園の敷地全体が「御薬園跡及び養生所跡」として国指定史跡となる際に適切に調査が実施されているのだろうと推測されるのだけれども,現在のところ,この塚の客観的な調査結果を示す確実な資料をみつけられないでいる。

以上を総合すると,あくまでも素人の推理としては,現在普通にアクセス可能なオープンデータである資料を前提にする限り,大震火災記念石の近くにある築山が古墳または塚それ自体またはその残骸である可能性を完全に否定し去ることはできないと考える。

なお,この築山が古墳時代の古墳ではなく後代の塚または土塁跡(櫓台跡)のようなものだったとしても,それでも簸川神社の旧鎮座地だった可能性は残る。


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旧東京医学校本館
(旧白山御殿所在地付近)


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日本庭園
(白山御殿建設前は河川敷)


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大震火災記念石


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説明板(表題は関東大震災記念碑)


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西の方から見た築山


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築山の頂上付近の様子


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東の方から見た築山


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北の方から見た築山



 小石川植物園

 古墳なう:簸川神社



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