つくば市筑波:筑波山神社(その1)
2023年3月中旬のことだが,老化による劣化のため登山はそろそろ無理だと悟り,これが人生で最後の機会だと思って筑波山の男体山の山頂にある筑波山神社を参拝した。男体山の祭神は,筑波男神(伊弉諾尊)。
筑波山神社は,式内社常陸國筑波郡筑波山神社二座名神大と比定されている。
ただし,知足院の僧・俊在が著した『筑波山流記』(天正18年(1590年))を読んでみると,戦国時代頃には筑波山全体が修験道の山となっており,古代の式内社以来の寺社は廃れて土に埋もれてしまっていたようだということを知ることができる。知足院の古い記録等も失われてしまったと書いてある。
筑波山の周辺一帯は,鎌倉時代~戦国時代には戦乱が絶えない地域でもあるので,必然的にそうなってしまうのだろうと思う。小田城(茨城県つくば市小田)を居城とした小田氏の運命も二転三転している。
ただし,知足院の僧・俊在が著した『筑波山流記』(天正18年(1590年))を読んでみると,戦国時代頃には筑波山全体が修験道の山となっており,古代の式内社以来の寺社は廃れて土に埋もれてしまっていたようだということを知ることができる。知足院の古い記録等も失われてしまったと書いてある。
筑波山の周辺一帯は,鎌倉時代~戦国時代には戦乱が絶えない地域でもあるので,必然的にそうなってしまうのだろうと思う。小田城(茨城県つくば市小田)を居城とした小田氏の運命も二転三転している。
筑波山神社の神紋は,丸に三つ葉葵となっている。これは,徳川家と深く関係することを示す紋だ。
この紋になっているのは,江戸時代には,境内地全域が別当寺・知足院の支配下にあったことによると考えられる。江戸時代初期において,知足院は,徳川家から手厚く保護を受けていた。そして,江戸時代を通じて,筑波山の男体山頂上は,男躰宮に千手観音と伊弉諾尊を同時に祀る神仏習合になっていた。また,筑波山の女体山頂上は,女躰宮に聖観音と伊弉冉尊を同時に祀る神仏習合になっていた。そのことは,『常陸国筑波山上画図(常陸國筑波山上畫圖)』の上でも明瞭に示されている。
この紋になっているのは,江戸時代には,境内地全域が別当寺・知足院の支配下にあったことによると考えられる。江戸時代初期において,知足院は,徳川家から手厚く保護を受けていた。そして,江戸時代を通じて,筑波山の男体山頂上は,男躰宮に千手観音と伊弉諾尊を同時に祀る神仏習合になっていた。また,筑波山の女体山頂上は,女躰宮に聖観音と伊弉冉尊を同時に祀る神仏習合になっていた。そのことは,『常陸国筑波山上画図(常陸國筑波山上畫圖)』の上でも明瞭に示されている。
筑波山神社の参道石段を登り,元は知足院の仁王門だった随神門を抜け,拝殿を参拝した後,宮脇駅からケーブルカーに乗って筑波山頂上駅まで行き,そこから先は普通に徒歩で男体山頂上まで登山した。
鳥居
神橋
神橋付近から見た女体山
石段と随神門
手水
狛犬
狛犬
随神門の彫刻の一部
筑波山神社御造営由来記
拝殿正面
斜め前から見た拝殿
拝殿側面
拝殿前の狛犬
拝殿前の狛犬
拝殿前の手水
御神水
参集殿
社務所
社務所の方から見た随神門
ケーブルカー宮脇駅
筑波山登山口の鳥居
筑波山神社
国立公文書館:常陸國筑波山上畫圖
玄松子:筑波山神社
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