高崎市吉井町:植松地区の古墳,神保植松城跡など

過日,群馬県高崎市吉井町神保植松地区にある古墳群を訪問した。

『群馬県古墳総覧2017』に記載のある古墳であっても既に墳丘が全くなくなってしまっているものもあり,同定が難しいのだが,入手可能な資料に基づき,かつ,マッピングぐんまの表示を参考にしながら同定を試みた。

もしかすると,既に消滅してしまった古墳と似た現代の築山または単なる土塊が含まれているかもしれず,確実ではないが,とにかく見て歩いた様子をブログ記事として記録しておこうと思う。

多胡村145号墳及び多胡村146号墳は,既に隠滅してしまった古墳なのだが,その所在地付近を見学した。その場所は,稲荷山橋の南端付近から少し登ったところにある。当然のことながら,どこにあったのか全くわからない。


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多胡村145号墳・146号墳所在地付近


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同上


植松地区で見た古墳は,マッピングぐんまの表示とは異なる場所に存在していることが多く,悩んだ。『群馬県古墳総覧2017』の古墳分布図040を手掛かりにしながら,該当するのだろうと判断可能な塚状地形を確認しながら見学。しかし,いずれも確実ではない。現代の築山が含まれている可能性もある。

多胡村137号墳は,径9.8×8.2m・高さ2.4mの円墳とされている。ただし,道路脇にある墳丘残骸のように見えるものが多胡村137号墳でないとすれば,既に隠滅。

多胡村138号墳は,径13.3×12.4m・高さ4.0mの円墳とされている。

多胡村138号墳だろうと判断した塚状地形の西側にも塚状地形のようなものがある。マッピングぐんま上では古墳所在地とはされていないが,可能性の問題としては,多胡村140号墳に該当し得るのではないかと思う。ただし,現代に積み上げられた単なる土塊に過ぎない可能性はある。
多胡村140号墳は,径51尺(15.45m)・高さ10尺(3.0m)の円墳とされている。


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西の方から見た古墳群所在地付近
左から順に多胡村142号墳,多胡村141号墳,
多胡村137号墳?,多胡村140号墳?,多胡村138号墳


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南の方から見た多胡村140号墳?(左),多胡村138号墳(右)


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南西の方から見た多胡村139号墳所在地付近?(左手)
多胡村136号墳所在地付近?(右手)


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多胡村136号墳所在地付近?(墳丘は全くない)


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多胡村139号墳所在地付近?(手前)
多胡村138号墳(画面中央)


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南東の方から見た多胡村138号墳


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北東の方から見た多胡村138号墳


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北東の方から見た多胡村138号墳(左)と多胡村140号墳?(右)


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北東の方から見た多胡村140号墳?


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西の方から見た多胡村140号墳?


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南の方から見た多胡村137号墳?(右手)
(左手奥は,多胡村140号墳)


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南の方はら見た多胡村137号墳?


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西の方から見た多胡村137号墳?


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北東の方から見た多胡村137号墳?


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西の方から見た多胡村141号墳


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東の方から見た多胡村141号墳


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北東の方から見た多胡村141号墳(中央),多胡村142号墳(右),多胡村140号墳?(左)


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北東の方から見た多胡村137号墳?(左),多胡村141号墳,多胡村142号墳(右)


多胡村141号墳と多胡村142号墳の北側には幅の狭い道路があり,その北側は上信越自動車道となっている。
そのあたりには神保植松遺跡古墳群の1号墳~3号墳,多数の方形周溝墓などがあったが,現在では全て隠滅し,道路敷地となっている。それらの古墳の所在地は,『群馬県古墳総覧2017』の拡大図143に記載されている。

多数の方形周溝墓があったという点が気になり,念のために調べてみたところ,群馬縣多野郡教育會編『群馬縣多野郡誌』(昭和2年)の149頁に,辛科神社との関係で,「源頼朝此邊を百濟庄と云」との記述があった。一般に,吉井の地は新羅人とする吉井連を住まわせたとの古記録からそのように信じている人が多いのだが,高句麗~新羅系の墓制は基本的に円墳であり,方形周溝墓とは異なる。一般に,方形周溝墓の墓制をもつのは楚~呉のあたりから渡来した古代中国人の一族だったと思われる。円墳に混じって方形周溝墓がまだ残存していた時代,祖を異にする人々として「百濟」と表現したものかもしれない。

なお,ここでいう「新羅」とは,正確な意味での国名を指すものではなく,「朝鮮半島方面」という意味しかもたないと考えられる。
いつも書くことだが,大昔に漢帝国が滅んでしまっているのに,古代から現代まで,日本人は「漢字」及び「漢文」という語を使用し続けている。この場合の「漢」とは「古代中国の」または「中国の方の」という意味しかもたない。
古代における「新羅」との語の用例も,(特に国家としての新羅國が滅んでしまった後の時代においては)「古代朝鮮の」または「朝鮮の方の」という意味しかもっていなかったと考えられる。しかも,(バクトリアなどの)中央アジア方面から移動し,朝鮮半島を通過して倭国に至った部族が相当多数あったと推定されることから,「新羅」または「百濟」と呼ばれた人々が現代の朝鮮の人々の直接の祖先であったのかどうかも全くわからない。少なくとも,考古学上の発見に基づいて推測する限り,古代の百濟國とバクトリア諸国との間にはかなり緊密な関係があったということが窺われる。
古代の関東地方に関する限り,「新羅」または「百濟」と呼ばれた人々が現代の朝鮮の人々の直接の祖先であったとの仮説に関し,古代人骨のDNA分析による証明は(現在のところ)存在しないようだ。もしかすると存在しているのかもしれないが,一般向けに公表されていない。


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北西の方から見た多胡村141号墳
(奥は牛伏山)


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西の方から見た多胡村142号墳


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北の方から見た多胡村142号墳


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北東の方から見た多胡村142号墳所在地付近
(右手道路敷地は神保植松遺跡3号墳所在地付近)
(写真奥の山の斜面は多胡村145号墳・多胡村146号墳の所在地付近)


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北西の方から上信越自動車道越しに見た古墳群所在地付近
(中央奥は多胡村141号墳,多胡村142号墳など)
(上信越自動車道南側法面上の空中付近に神保植松遺跡6号~9号方形周溝墓があった)
(上信越自動車道南側法面上の空中付近に神保植松遺跡2号墳があった)


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植松橋の南西側を通る道路
(神保植松遺跡2号方形周溝墓(隠滅)及び3号方形周溝墓(隠滅)の所在地付近)
(写真右手の法面上空中に4号方形周溝墓と5号方形周溝墓があった)


植松地区の古墳群所在地付近は,神保植松城跡の南側部分の残部の所在地ともなっている。神保植松城跡の主郭を含む主要部分は上信越自動車道の建設のために完全に掘削されてしまっている。

上信越自動車道の南側の残存部の現況は山林となっており,近づくことができなかった。多胡村137号墳ではないかと思われる塚のある場所付近から神保植松城跡の南側部分の一部と空堀と思われる地形の一部が残されている様子を見ることができたが,はっきりしなかった。

上信越自動車道の北側の残存部は,岬状のやや狭い台地にあり,その北端部は,神保植松遺跡1号方形周溝墓があった場所となっている。現在は,何もない。
その墳丘を二次利用して物見櫓の基壇または土塁の一部にしたのだろうか?

神保植松城跡の主郭があった場所付近の空中には,現在では植松橋が存在している。


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西の方から見た神保植松城跡の残存部分付近
(南側の空堀跡付近?)


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同上


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植松城跡の主郭があった場所付近
(神保植松遺跡1号墳所在地付近)


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北側の郭跡残存部


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北側の郭跡北端付近
(神保植松遺跡1号方形周溝墓の所在地付近)


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北側の郭跡残存部側面



 余湖:神保植松城跡



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