茨城県稲敷郡美浦村:楯縫神社再訪

2023年1月初旬のことだが,楯縫神社(茨城県稲敷郡美浦村郷中)を再訪し,参拝した。

2019年に最初に参拝して以来,日本の古代史を考える際には必ずと言ってよいほど想起する式内社の1つとなった。
特に古墳時代においては平野が現在よりもずっと少なく,現在の関東地方の低地のほぼ全部が海面下または泥湿地となっていたので,水上交通が格別に重要となる。
軍事的にもそうなるので,天険の要害的な要素を多く持つ入江には軍港が構築されたのに違いない。
朝廷の命により(神武東征の継続として東方及び北方に向かって)進軍し,当該支配地を武力支配するための軍事的手段としての水軍の重要性は,日本武尊の常陸国における進軍伝承の経路を見るとよくわかる。このことは先学の丹念な研究・諸業績により,明確化され,検証されてきた。
それらの水軍の基地のような場所は,その地理的要因のゆえに,律令時代には税(租庸調)を輸送するための港湾となり,また,後代に商業が発展した時代には荷役のための港湾として続いた。
都市としての古代ローマの発展の歴史をみても重複する構成要素がかなり多くある。

楯縫神社の拝殿の前に立ち,これまで無事に各地を旅し,広く見聞を得ることができてきたことに深く感謝した。


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鳥居


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参道の鳥居


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参道


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手水


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拝殿


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敷石


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本殿


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境内社(御龍社(高龗命)?)



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境内社(右が琴平大神(大物主命)?)


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歌碑


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境内社


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境内地北側の参道



一般に,古代史を考えることは,現時点における現代の文化財保護を考える上での基礎となる。
仮に文化財保護法の条文の文字を全部暗記したとしても,それだけでは全く何も理解していないのと同じだ。

個々の条項は,それ自体としては,単なる符号列に過ぎない。符号は,それ自体としては「意味」を含有していない。
個々の符号に対して意味を与えるのは,その符号の読み手(=信号受信者)の脳の作用なのであって,符号ではない。
一般に表意文字とされている漢字の場合であっても,漢字には「表意文字としての機能があること」を一般的に既に知っており,かつ,個々の漢字について表意文字として機能するための金文以来の文字としての来歴に関する基本的な知識があり,かつ,偏旁冠脚の働きに関する基本的な知識を既にもっていないと,何のことやらさっぱりわからない。そして,それらの一般的な関連知識は学術上の知識として別のところから与えられるものであり,当該文字それ自体が含有しているものではない。

それゆえ,個々の符号に対する個々具体的な意味づけは常に離散的に多様化する。
ここに一般的な意味での意味論の困難性が存在する。
しかし,それでは社会生活を維持できないので,国家権力により一定の意味づけだけを強制するための国家的装置として裁判所制度が存在する。思想信条の自由・学問の自由として,個々の条項の意味内容をどのように解釈するのも各人の自由なのだが,(民事上の強制執行や行政上の執行を含め)国家権力の発動を伴うという意味で強制的な力をもつ法解釈をする権限は,日本国憲法上,裁判所だけに与えられている。
裁判所以外の国の機関(特に行政機関)にはそのような意味での強制力をもつ法解釈権限はない。国会もまた,国会が制定した法令の法解釈に関し,裁判所の判断を拘束するための権限をもたないので,裁判所は,現時点における国会の多数意見とは無関係に,自由に法解釈できる。

個々の条項が単なる符号に過ぎず,それ自体としては「意味」を何も含有していないというだけではなく,個々の条項の適用対象となる事実もまたそのようなものであることを理解しなければならない。
個々の条項の適用対象となる事実は,符合に過ぎない条文上の語とは別に現実に存在する事実であり,抽象レベルが法文上の語とは全く異なる。例えば,文化財保護法109条は「史跡」に関して定めているが,「史跡」という名称だけで唯一無二に他と識別・特定できる史跡は存在しない。「何が史跡であるか」を実際に知るためは,行政行為として史跡の指定行為の総体とその総体としての史跡指定行為の構成要素となっており,その指定の対象となっている個々具体的な事実を仔細に知らなければ全く理解できない。
加えて,(文化財の場合には特に)過去からの蓄積なしには理解しようがないので,何百年でも過去に遡って全て理解しなければならない。そのために,文化財は,英語では「文化遺産(cultural heritage)」と表現されることにもなる。例えば,ある史跡の文化的価値は,物理的な存在形態だけではなく,その史跡とされる場所と関連する過去の歴史が極めて重要な判断要素となっている。この判断要素としての歴史は,当該物理的場所それ自体に書かれているものではない。史跡に立てられている説明板は,文化財としての指定が実行された後に設置されたものであるのが普通だ。しかも,設置後に風化して判読不能になっている例が多数ある。それゆえ,当該史跡である文化財それ自体とは全く別の情報源から過去の歴史を探り,自分なりに構想・理解するという思考作業を常に継続していなければならない。なぜなら,同一の史料(資料)であっても,それを「読む」という思考作業は,読み手の主観的な精神作用の一種なので,離散的に多種多様となる。
過去の歴史学上の通説も役にたたないことが非常にしばしばあり,基本的には正しくても個別的に誤りを含んでいることが多々あり,かつ,万能の学説は存在せず,当該学説が妥当し得る範囲という意味での射程距離(scope)が必ず存在するので,無条件で学術上の通説なるものの権威に依拠し過ぎることは危険だし,愚かなことでもある。常に自分自身で考え続けるしかない。
ただし,自分以外の人間にも思想信条の自由・学問の自由があるので,自己の見解を他者に強制し,修正させる権利のようなものは誰ももたない。とりわけ,権威に依拠する以外に「何もない」または「何もできない」人々が学術団体等のような集団を構築し,かつ,一定の政治的影響力をもっている場合には,正しい学術を新たに構築できるだけの天才的なレベルの力量をもっていない限り,そのような権威を維持することそれ自体を自己目的とする集団を破壊すること,または,そのような集団に属する人々を心の底から落胆させてまで特定の学説を修正させることは,最初から無理なことだということも承知しておくべきだろうと思う。

一般に,真に力量のある者は,一匹狼でもどうにかこうにか生きていける。無力な烏合の衆は,権威を頼り,集団で威圧することによって生き延びる。

とまれ,個々の条項の適用対象となる事実に関し,その対象となる「事実」の現況を認識しただけでは当該文化財について何も知らないのと同じだ。
文化財ではない個々の人間でも,似たような顔をしていても過去の人生が全て異なるので,その人生の記憶の集積としての個性(本人性)が異なり,それゆえに,そのような意味での本人性の相違を識別点として個人の識別が可能となるのだが,文化財でも論理の基本構造は変わらない。
それゆえ,ほぼ全ての学術研究分野において,同一性識別の本質を知ることが当該学術研究の基礎となる。

視点を転ずると,一般に,戦争の際にしばしば実行される対戦相手国の文化遺産の破壊行為は,対戦相手国の物的財産だけではなく歴史の証拠と精神的支柱を破壊する行為なのだ。そのような世界レベルにおける破壊行為の本質を理解することも重要なことだ。そうでなければ,欧州諸国が,戦争によって破壊された景観を重視し,(建物の内部は現代建築そのものであっても)街路の外貌だけは往時のものを復元しようと努力を重ねてきたことの意味を理解することができない。街路の景観は,文化の歴史記憶の結晶のようなものなのだ。

さて,現在の千葉県~茨城県~埼玉県の古墳時代を考えると,水軍の司令塔のような基地が存在し,そこから派遣された軍団の駐屯基地のようなものが各地に構築され,そこを守護していた軍団の中には(律令制の崩壊後)地方領主として独立した軍事組織に変化した集団も存在したと考えられる。
そのような意味での水軍の司令塔のような基地として,(現在では陸地化している港湾施設所在地推定地を含め)鹿島神宮と香取神宮を考えるべきことは当然のことだ。
そして,そのような水軍の司令塔のような基地から派遣された軍団の駐屯基地があった場所の1つとして楯縫神社を考えるべきことも当然のことだと理解している。
このような理解に基づく古代の地政像は,日本武尊の伝承とも基本的に合致している。

他方において,私は,文化財保護のための行政執行全般を調査対象として鋭意仕事を遂行してきたので,文化財保護法上では「天然記念物」として区分される対象(特に国指定の史跡や景勝地)も調査対象としてきた。そのような考察対象は,生きた生物と生態系を必須の構成要素として含んでいる。
また,無形文化財の場合には,人間とその生活それ自体が必須の構成要素として含まれている。
一般に,(人間を含め)全ての動植物は,何億年も前に遡る地球の自然史を基礎として存在している。遺伝子編集によって生成される新種細胞はミュータントの一種なのだが,そのように理解できるようになるためには,やはり,地球の自然史全体を可能な限り網羅的かつ正確に理解しなければならない。
それゆえ,(化石生物を含め)人間と野生の動植物それ自体に関しても,自分の能力の限界内で可能な限り広く・深く理解しようと努力を重ねてきた。

要するに,森羅万象を理解し,全体像の中における歴史的一場面として眼前の事象を公平かつ正確に認識・理解するための努力を継続しようとしない限り,およそ何も理解できない道理となる。
いわゆる生成AI(generative AI)には(原理的に)それができないので,いつまでたっても人工無能のままでいるしかないのだ。

以上に述べたようなことを他人に対して押し付けようとは思わない。「無関心」でいることも思想信条の自由の一部だ。しかし,学術に触れたいという人にはそれとなく話すようにしている。簡単にパクるだけでうまくいくような安易な方法が存在すると思っている馬鹿者は相手にしないことにしている。
無論,(私は普通の人間なので)騙されることなどもあり,せっかく自力で獲得した知見を誰かに奪われることもある。しかし,自分自身ささんざん苦労して当該知見を形成したのではない者は当該知見を得るための「試行錯誤」のプロセスを実体験していないので,当該知見の有効性及び射程距離(scope)に関し,「どのような制約条件が絶対的なものとして存在するのか」または「どのように利用すると失敗するのか」を全く知らない。それゆえ,見ているところ,予想したとおりに失敗し,当該知見をパクった者が所属していた組織が消滅してしまったところもある。
当該知見を生成AIに自動学習させてみたとしても,結局,同じことになるだろう。当該知見それ自体は,捨てられた仮説や失敗した実験結果等が存在することを何も示していないのが普通だからだ。
知見とは,そのような複雑な履歴(history)を必須の要素としてもつ論理構造体の一種だ。
一般に,定義を記述する符号列だけで完結可能なのは(もともと人工的な体系として構築された環境である)数学の分野くらいしかない。本当は,現実に存在する森羅万象の大部分は未知のままだ。しかも,刻々と未知の部分が大量に生成され続けている。そのような未知の部分については「知識」も存在しないので,未知の部分の実質的内容を生成AIによって自動学習することができない。

しかし,十分な理解能力と一般教養をもたない者にはそのことが理解できない。



 玄松子:楯縫神社



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