茨城県稲敷郡美浦村茂呂:茂呂根本台古墳群

2023年1月初旬のことだが,茂呂根本台古墳群(茨城県稲敷郡美浦村茂呂)の2号墳~5号墳の所在地を見学した。
ただし,墳丘または塚に該当する場所へのアクセスは不可能または非常に困難と判断し,公道から所在地付近を見学するのにとどめた。
茂呂根本台古墳群の2号墳~5号墳の所在地からは少し離れているが,茂呂地区田園都市センター(茨城県稲敷郡美浦村茂呂)の敷地内東側に茂呂根本台古墳群の1号墳がある。既に見学している。

根本台古墳群の所在地は,南側の霞ヶ浦方面に伸びる細長い舌状台地上となっているのだが,同じ台地は古代の要塞や中世の城郭の遺跡の一部としても理解されているようだ。
美浦村史編さん委員会編『美浦村史研究6号』(平成2年3月)の37頁によれば,この台地には根本行信の居館のあった場所との伝承があるようだ。根本行信は,後に帰農して四郎右衛門と称し,その子孫は代々村役人を務めたとのこと。もしかすると律令制の時代から官衙の上級役人を務めた家系だったのかもしれないと思う。

現地を歩いてみて,現況では谷津(または,谷津を埋め立てた住宅地)になっている場所は,古代においては深い入江であり,軍港だったのかもしれないと思った。
この入江を北の方に向かって最奥まで軍船を進めると楯縫神社の鎮座地(茨城県稲敷郡美浦村郷中)となっている細長い舌状台地の先端部分に至るので,その鎮座地~あたりに朝廷の水軍の指揮所のようなものが設けられ,後に神社となったのかもしれないと思う。
ただし,楯縫神社の鎮座地を含む舌状台地所在地の考古学調査が実施されたことはないようなので,現在でも詳細は不明。

さて,『美浦村史研究6号』の37頁によれば,茂呂根本台古墳群の2号墳は,将監塚とも呼ばれ,径15.7m・高さ1.5mの円墳とされている。ただし,『美浦村史研究6号』の32頁では,この古墳を監物塚とも呼ばれる大須賀津古墳群の5号墳(径18.1m・高さ4.8mの円墳)としている。
将監塚と監物塚とは同一の古墳を意味し,それらの名称は相互に異名(synonym)となっていると考えられる。大きさの記載に相違があるのは,計測時点が異なるためと推定される。もともと小さな古墳なので,現在では隠滅してしまっているかもしれない。
茂呂根本台古墳群の2号墳の南西には3号墳(径14.6m・高さ0.9mの円墳)があることになっている。
茂呂根本台古墳群の3号墳の西には4号墳(径14.6m・高さ0.9mの円墳)があることになっている。

茂呂根本台古墳群の2号墳(将監塚)の所在地は青柳板金塗装の西側に位置する小山の頂上付近,3号墳の所在地はその小山の南西側斜面上ではないかと推定した。
しかし,2号墳と3号墳所在地と推定される場所に関しては,国土地理院の地図に表示されている道が現在では消滅してしまっているので,そこまで登ることができない。公道からその所在地付近をながめるだけにとどめた。

茂呂根本台古墳群の4号墳に関しては,青柳板金敷地の裏にある林の中に小さな塚状地形があったので,それが該当するのではないかと考えたが,確実ではない。単なる土塊(建設残土の一種など)に過ぎないのかもしれない。


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2号墳所在地付近


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2号墳所在地の西側にある宅地造成地


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4号墳?


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同上


神明塚とも呼ばれる茂呂根本台古墳群の5号墳(径20.6m・高さ2.3mの円墳または塚)の所在地は,古墳群所在地となっている細長い舌状台地の北端の尾根上となっている。5号墳(神明塚)には稲荷社と神明社が祀られていることになっている。
5号墳(神明塚)の北側には,天神社を祀る小塚(径15.6m・高さ1.4m)と稲荷社を祀る小塚(径10.1m・高さ1.2m)が連続していることになっている。

現況はひどい藪になっており,古墳や塚の所在地近くまでアクセスできない状態となっていた。それゆえ,公道から所在地付近を見学しておしまいということにした。
公道から見える範囲内に石祠があった。もしかするとその場所が5号墳(神明塚)の墳丘裾の一部なのかもしれない。


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南の方から見た神明塚所在地付近


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西の方から見た天神社と稲荷社を祀る小塚の所在地付近


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南西の方から見た天神社と稲荷社を祀る小塚の所在地付近


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石祠


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5号墳(神明塚)?



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