千葉県香取郡多古町島:多古光湿原で見た花など(その1)

昨日(2023年6月17日),多古光湿原(千葉県香取郡多古町島)を訪問し,同湿原及びその周辺の植物や昆虫・クモなどの小動物を観察した。

多古光湿原は,多古光湿原保全会によって管理・維持されているのだが,ここ数年間は新型コロナの影響により十分な管理活動が行われなかったらしいという情報を事前に得ていたので,もしかすると湿地内の観察ができない状態になっているかもしれないと予想しつつ現地に向かった。

湿原直近には駐車スペースがなく,路上駐車したくないので,島地区親水公園の駐車場にクルマを停め,そこから先は徒歩で往復。徒歩の方が様々な発見が多く,良いと思った。

途中で考古学上の発見と関係する標識を見つけた。島揚水機場付近には丸木舟出土地の標識がある。また,島揚水機場敷地のすぐ東側には500m先に再葬墓遺跡があることを示す標識がある。この500m先の地点とは,志摩城跡(千葉県香取郡多古町島)の所在地のことを指す。今回は時間の関係で見学できなかったが,いずれ見学しようと思っている。

なお,地名(志摩・島)から推測すると,この地域は,古代の伊勢神宮または猿女君(猿女氏)と何らかの関係をもつのではないかというような印象を受けた。


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島親水公園


Procambarus clarkii
アメリカザリガニ
Procambarus clarkii


Locusta migratoria
トノサマバッタ(Locusta migratoria


Argiope amoena
コガネグモ(Argiope amoena


Araneus ventricosus?
オニグモ(Araneus ventricosus)?


Araneus ventricosus?
同上


Orthetrum albistylum speciosum
シオカラトンボのメス
Orthetrum albistylum speciosum


Dryophytes japonicus
ニホンアマガエル(Dryophytes japonicus


Sorghum halepense
セイバンモロコシ(Sorghum halepense


Sorghum halepense
同上


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島親水公園付近から見た大島城跡方面の様子


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島揚水機場


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丸木舟出土地の標識


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丸木舟出土地付近


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弥生再葬墓出土地の方向を示す標識


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新竹橋


栗山川を渡る新竹橋から覗いてみたところ,無数のアカミミガメ(Trachemys scripta elegans)が浮き沈みしていた。この川は完全に汚染し尽くされている。


Trachemys scripta elegans
アカミミガメ(Trachemys scripta elegans)


Trachemys scripta elegans
同上


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栗山川


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新竹橋から更に東に進む道


路傍で何種類かの昆虫を見た。


Chrysolina virgata
オオルリハムシ(Chrysolina virgata


Sympetrum infuscatum
ノシメトンボ(Sympetrum infuscatum)のオス


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カバキコマチグモ(Cheiracanthium japonicum)の巣?


古代の伊勢神宮は,「倭姫」と深い関係をもっている。この倭姫については諸説ある。

私は,死した後に「もがり」の状態のままで長距離を移動して最終的には伊勢に落ち着いた女性であり,『魏書』の「倭人伝」にある臺與(壹與)のことを指すのではないかと考えている。
弥生時代における再葬墓と同等,遺体の軟質部分が溶けて消滅してしまうまで何年でも「もがり」が続き,その遺体が白骨化してから正式の葬祭が挙行されたのだろう。
中国の山岳少数民族の中には同様の葬祭様式を現在でも存続させている部族(tribe)が存在する。

一般に,『日本書紀』では意図的に時代を相当ずらした記述が採用されていることが明らかであり,このことが先学によって既に証明済みのことなので,『日本書紀』に記されている年代をそのまま信用すると何も理解できていないことになる。
私見としては,『魏書』の「倭人伝」に記された卑弥呼の時代は,おそらく,『日本書紀』に記された孝霊天皇の時代と一致している。
形式的な年代としては時代に齟齬が所ずるが,『魏書』の記載のほうが客観的に正しく,『日本書紀』の記載は(白江の戦後の対唐対策のために)あえて虚偽のものとしていると考えられる。
そして,孝霊天皇の子とされている「倭迹迹日百襲姫命」の字義に関しては,諸説あるけれども,私は,「倭国の王の後裔であり,かつ,百済の領土も相続した姫」という意味または「大和と百済の姫」という意味に解することができると考えている。
無論,反対論もあるだろうが,この点に関して現時点において確定した考え方はない。

他方,多古町及びその周辺のことを考えてみると,千葉県匝瑳市野手に内裏塚古墳(弘文天皇妃耳面刀自陵墓)なるものが存在するという事実を軽視できないと考えている。
この点に関する通説における理解とは異なるが,私は「耳面刀自」とは「みめひめ」(=容姿麗しい姫)という美称であり,実名ではないと考えている。
「耳面」は「みめ麗しい」の「みめ」として読むべきだと考える。
また,「刀自」は「とじ」と読むのではなく「ひめ(姫)」と読むべきだ。「刀自」の読みに関しては,これまで何度も書いてきたとおり。通説における「刀自」の理解では,刀自は徴税対象となる戸籍制度上の女性戸主のような存在という理解ということになると思われるが,それでは弘文天皇妃という地位と矛盾する。
読み方としては「ひめ」だと解した上で,律令制度が確立した以降にはその意義・用法が変化したと理解するほうが妥当だと考えられる。

この点はさて措き,耳面刀自は藤原鎌足の子とされている。藤原鎌足の故地(鹿島)に逃れる途中で没した場所がその陵墓所在地なのだとされているのだが,「どうしてこの地が藤原鎌足及びその子らと深い関係をもつ地なのか」をじっくりと考えてみることが大事だと思う。
私見としては,伊勢とのつながりが深く,それゆえ,古代の皇族と深く関係する者が支配階級となっており,かつ,生産高からして非常に豊かな地域だったからだとしか言いようがない。
元は古代の香取海が広く広がる地域であり,海の幸,山の幸及び律令制以降の干拓等による農産物が豊富に産出した地域だったのだろうと推定される。
藤原鎌足(中臣鎌足)の一族は,少なくとも,この地を荘園として支配していたのだろうと考えられる。

そのような豊かな土地だったからこそ,戦国時代になっても北条氏が進出してきたのだろう。



 多古光湿原保全会

 侵入生物データベース:ミシシッピアカミミガメ

 侵入生物データベース:アメリカザリガニ

 侵入生物データベース:セイバンモロコシ



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