山武市戸田:根崎古墳群(その1)

過日,根崎古墳群(千葉県山武市戸田)を見学した。

2023年3月21日現在,この古墳群は,ちば情報マップ(埋蔵文化財包蔵地)上では「根崎古墳群(山武市麻生新田字馬場1377他)」と表示されている。この表示は,千葉県文化財保護協会編『千葉県所在古墳詳細分布調査報告書』(平成2年3月)を基礎とするものと推定される。

ところが,根崎古墳群の所在地にある古墳に関し,平岡和夫『千葉県九十九里地域の古墳研究』(平成元年)の76~77頁は,胡麻手台古墳群として記述された古墳分布図を掲げている。
より厳密には,『千葉県九十九里地域の古墳研究』の77頁にある分布図中には極めて近似する地形をもつ場所が2箇所含まれており,北側に位置する3号墳~10号墳と記載されている古墳の所在地は胡麻手台古墳群の南端付近(山武町教育委員会編『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』(1975年)の16頁の分布図に記載されている胡麻手台1号墳~6号墳所在地の南側にあり,『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』(1975年)の16頁の分布図には記載されていない古墳)に相当するが,南側に位置する11号墳~18号墳と記載されている古墳の所在地は根崎古墳群に属する古墳の所在地が誤って胡麻手台古墳群に属する古墳として掲げられている。
ちなみに,『千葉県九十九里地域の古墳研究』の中には根崎古墳群に関する記述が存在しない。

そして,『千葉県九十九里地域の古墳研究』の中で胡麻手台古墳群とされている古墳群に関する記載が,財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』の439~441頁に反映されている。
具体的には,『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』では,胡麻手台古墳群ではない古墳群を胡麻手台古墳群として収録し,胡麻手台16号墳ではない古墳を胡麻手台16号墳として収録している。『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の16~17頁によれば,胡麻手台16号墳は,ところ建築(千葉県山武群麻生新田)の北約300mのところに所在していたことになっている。同所の現況は,完全に削平されて平坦な畑地となっている。
『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』の439~441頁には誤りが含まれており,他に適切な救済方法がないので,この部分に関し,千葉県の公式Webサイト上で正式の訂正文が公表されるべきだと考える。

同様の誤りは,萩原恭一『山武町胡麻手台16号墳発掘調査報告書』(1995年)及び財団法人千葉県文化財センター編『千葉県文化財センター調査報告書第272号 山武町胡麻手台16号墳発掘調査報告書』(平成6年度)にもある。この報告書は,古墳群の呼称(識別子)を得るための資料としては慎重な検討を要する資料の1つだと言える。なお,『千葉県文化財センター調査報告書第272号 山武町胡麻手台16号墳発掘調査報告書』は,基本的には従前の報告書の内容をそのまま転写しただけものなので,従前の報告書等に含まれている誤りをそのまま引き継いでしまっている。
これらの報告書において胡麻手台16号墳とされた古墳(前方後円墳)の発掘調査結果は,『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』の439~441頁にほぼそのまま転載されている。

これらの資料に加え,財団法人山武都市文化財センター編『千葉県山武町胡麻手台古墳群』(1991年)も内容的に『千葉県九十九里地域の古墳研究』とほぼ同じとなっている。この報告書もまた,古墳群の呼称(識別子)を得るための資料としては慎重な検討を要する資料の1つだと言える。
『千葉県山武町胡麻手台古墳群』の中で胡麻手台3号墳~5号墳とされている古墳は『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の16頁の古墳分布図中には記載のない古墳であるか,または,『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の16頁の古墳分布図中の胡麻手台3号墳に該当すると考えられる。
しかし,『千葉県山武町胡麻手台古墳群』の5頁の中で胡麻手台11号墳~18号墳とされている古墳は,胡麻手台古墳群に含まれる古墳ではなく,ちば情報マップ(埋蔵文化財包蔵地)上では「根崎古墳群(山武市麻生新田字馬場1377他)」と表示されている古墳群(=『千葉県所在古墳詳細分布調査報告書』の124頁の記載における根崎古墳群)に含まれる古墳となっている。

真の胡麻手台古墳群の分布図は,『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の16頁と『千葉県所在古墳詳細分布調査報告書』の図25Aにある。 『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の16頁にある分布図内には三角点の表示があり,その三角点の所在地を見つけることが古墳群所在地を確定的に認識するための最重要ポイントとなる。
真の胡麻手台古墳群の所在地も見学し,古墳群の所在地及び現存古墳の有無を確認した。その関係の事柄に関しては,後日,ブログ記事として書く予定にしている。

他方,根崎古墳群の分布図及び詳細記述は,『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の14頁及び15頁と『千葉県所在古墳詳細分布調査報告書』の図25Aにある。
『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の14頁及び15頁における根崎古墳群の実際の所在地は,金剛勝寺(千葉県山武市戸田)の北側を通る自動車道路の敷地となっている場所(戸田跨道橋を含む区間)から南側の部分(主に金剛勝寺境内地の北側~東側に位置する段丘崖上の土地)が該当する。
このことは,『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の14頁及び15頁に根崎古墳群の記述と共に記載されている麻生新田古墳群の所在地等を比較検討すると明確に認識できる。特に,『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』において麻生新田古墳群の1号墳として記載されている大型の現存円墳の所在地(高柳梨園の南西に位置する小規模な住宅地内)を基準として推論すると,根崎古墳群の所在地を確定できる。
この『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の14頁及び15頁における根崎古墳群の残存古墳の大部分は,現時点では,麻生新田古墳群の一部として理解されている古墳群となっている。

以上のような誤りが存在することに関しては山武市歴史民俗資料館に既に連絡済み。
このブログ記事では,古墳群の呼称としては,「根崎古墳群」と呼ぶことにし,個々の古墳の附番に関しては,『千葉県所在古墳詳細分布調査報告書』の図25Aに記載のある附番及びその附番から推測可能な附番を用いることにする。

さて,根崎古墳群を構成する古墳の中で最大の古墳は,稲荷神社(千葉県山武市戸田1554)の北側台地上に存在する全長86mの大きな前方後円墳。
この前方後円墳は,現在のちば情報マップ上では,(胡麻手台古墳群ではなく)根崎古墳群に含まれる古墳として扱われている。
このブログ記事では,『千葉県所在古墳詳細分布調査報告書』の図25Aの記載に従い,「根崎12号墳」として表記する。

この前方後円墳(根崎12号墳)のすぐ近くに送電線の鉄塔(東京電力新袖ヶ浦線67号鉄塔)があり,その送電線管理のための林道がある。
この送電線鉄塔の南西側には2基の塚のようなものがあり,いずれも古墳と思われる(仮称根崎A号墳及び仮称根崎B号墳)。
その送電線鉄塔管理用の林道のような山道を通ってこれらの古墳にアクセスした。

ちなみに,今回の見学は,例外的に,私の専門分野に属する学術調査研究の一部として実施したものだ。これまで類似のサンプルとなる地区を多数訪問してきたが,戸田地区の古墳が私の専門分野に属する学術研究上で最も大きな価値をもっているように思う。
へたに連絡して当地の関係各当局担当者に負担をかけないようにするため事前の連絡をせず,あくまでも素人の老人が趣味で遺跡探訪をしているかのように行動した。
そのため,明らかに立入禁止または立入不能な場所へはアクセスしていない。必要があるときは,正規の手続を履み,関係当局に事前連絡し,(許可が必要なときは)許可を得た上で現地を再訪し,必要な場所にアクセスすることになるだろう。

ともあれ,現地調査を開始するのに先立ち,無事に調査を終えることができることを祈願するため,根崎12号墳の所在地南側斜面に鎮座している稲荷神社を参拝した。


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稲荷神社の鳥居


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稲荷神社の石段


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石段の途中から見える景色


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石段上部と社殿前の鳥居


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稲荷神社の社殿


稲荷神社の社殿の南側上付近に送電線鉄塔(東京電力新袖ヶ浦線67号鉄塔)がある。

この送電線鉄塔のすぐ南西側に比較的大きな円墳がある。後代の塚かもしれない。このブログ記事では根崎A号墳と呼ぶことにする。ちば情報マップ上では,根崎古墳群に含まれる古墳であり,送電線鉄塔の南西側にある円墳として表示されている。
あくまでも可能性の問題としては,関連資料上では所在地が明確ではない根崎11号墳に該当するのかもしれない。
詳細は不明だが,目測で直径15~20m前後・高さ3m程度のように見える。
『千葉県文化財センター調査報告書第272号 山武町胡麻手台16号墳発掘調査報告書』の3頁の分布図上では,根崎A号墳は,「胡麻手台27号墳」として記載されている。
しかし,『千葉県山武郡山武町埋蔵文化財分布調査-第二次 成東川・境川流域の古墳-』の16~18頁によれば,胡麻手台27号墳の所在地は,八幡神社(千葉県山武市埴谷)の南東約300mの山林内となっている。


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送電線鉄塔


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南の方から見た根崎A号墳


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南西の方から見た根崎A号墳


根崎A号墳所在地から南西の方にちょっと下ると人工的に構築された階段状の崖地になっており,そこには民家がある。 その手前(稲荷神社境内地の西側)にも塚があり,後代の塚の可能性が高いけれども,古墳かもしれない。この塚は,公式記録上では存在しないことになっている。このブログ記事では,根崎B号墳と呼ぶことにする。
あくまでも可能性の問題としては,関連資料上では所在地が明確ではない根崎10号墳に該当するのかもしれない。


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東の方から見た根崎B号墳


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北東の方から見た根崎B号墳


根崎12号墳は,全長86m,後円部径43m・後円部高さ7.8m,くびれ部幅17m,前方部端幅49m・前方部高さ5.7mで,前方部を西の方に向けた前方後円墳とされている。

根崎12号墳の後円部の墳頂には小さな神社(田村稲荷大明神)が祀られている。氏神かもしれないと思ったけれども,敬意を表する趣旨で参拝した。

根崎12号墳のくびれ部南西側裾に破壊された横穴式石室があり,奥壁等が残されているとのことなのだが,現況では埋め戻されているようだ。
ただし,発掘調査結果に示されている構造図やその所在場所等から見て,横穴式石室ではなく,既存の墳丘脇の空地を二次利用して構築された奥壁構造をもつ竪穴式石室の一種という特殊な折衷型石室に該当する可能性があるのではないかと考えられる。それゆえ,石室部分に関し,綿密な再調査・再検討の必要性がある。
そして,墳丘内に主体部が残存しているか否かは全く不明。これまで調査されたこともないようだ。

その石室の残存部の発掘調査により,直刀・鉄鏃・ベルト飾り等が発見されているので,律令制以降に当地に派遣されて統治した上級官吏(または,朝廷から任命を受けて律令制下の上級官吏として統治した旧来の支配層に属する武人)の墓所ではないかと考えられる。
あくまでも一般論としては,明治維新の際にも華族や氏族として支配層に残った武士の家系は多数あったので,律令制が浸透する前後の時期にも全く同じことがあったと考えるのが妥当だ。朝廷の命により関東地方~東北地方各地に進攻して屯田・支配した武人の一族の中には,そのようにして明治維新以降まで続いているところがあると考えられる。

根崎12号墳は,送電線鉄塔の北東に位置している。送電線鉄塔~根崎12号墳の前方部近くまで送電線管理用の路が続いているのだが,あまり使用されていないらしく,ところどころ不鮮明となっている。
あとで地元の方から説明を受けたところによると,このあたりにはイノシシが頻繁に出没しているので,十分に注意しないとケガをするとのことだった。

根崎12号墳の墳丘にアクセスできる道路としては,古墳所在地の東側~北側を回り,民家の前を過ぎて台地上の畑地の方に登る道がある。
ざっと見たところ,かつての食糧難の頃には,現在よりもだいぶ広い面積の場所が開墾されて畑地になっていたのではないかと推測されるのだが,現在では畑地部分が縮小し,畑地以外の場所は山林や雑種地のようになっている。
ただ,現在平坦になっている場所でも,元は古墳群を構成する円墳等が存在した可能性がある。

根崎12号墳~根崎A号墳・根崎B号墳を含む台地上のかなり広い範囲が朝凪遺跡と呼ばれる縄文時代,古墳時代(後期),奈良・平安時代の複合遺跡の遺跡包蔵地となっている。


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朝凪遺跡所在地の一部?


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根崎12号墳の南東を通る舗装道路


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分岐する狭い道


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東の方から見た根崎12号墳の後円部


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根崎12号墳の前方部北西端付近


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くびれ部付近から見た後円部


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くびれ部付近から見た前方部


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前方部頂付近


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前方部付近から見た後円部


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北西の方から見た後円部側面


山武町史編さん委員会編『山武町史 通史編』(昭和63年)の114頁には埴谷~麻生新田の段丘縁に並んでいる古墳の分布図があり,その右下に位置する戸田地区の古墳を示す部分に根崎古墳群を構成する古墳の一部が示されている。
ところが,同頁の図には,根崎古墳群を構成する古墳の中で最大の前方後円墳である根崎12号墳(『千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)』及び『千葉県九十九里地域の古墳研究』における胡麻手台16号墳)の記載がない。
とても大きな古墳なのに,どうしてその記載がないのかについては,よくわからない。


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