高崎市上里見町:多胡神社と多胡碑

過日,多胡神社(群馬県高崎市上里見町)を参拝した。祭神は,天児屋根命・多胡羊太夫藤原宗勝公。

多胡神社が鎮座する地区は,多胡羊太夫の一族の子孫が暮らしている地区として知られている。伝承のとおりなのだろうと思う。

多胡神社の社殿はそれほど大きなものではないけれども,境内地に登る石段脇には古い石碑が並び,更に,社殿脇には多胡碑がある。

この多胡碑が立てられた年代の詳細は不明ということになっている。
現地に立てられている説明板によれば,吉井町にある多胡碑を念頭において建碑されたものとのこと。

この多胡碑の中央には「多胡宮霊羊宗勝神儀位」と刻まれ,その右側には「人王四十三代帝元明天皇御宇賜之 弁官苻上野国片岡郡緑野郡 甘良郡并三郡三百庄郡成給 羊成多胡和銅七年三月九日」と刻まれ,左側には「甲寅宣 左中弁正五位下多治比真人 大政官二品穂積親王 左中弁正二位石上尊 右大臣正二位藤原尊󠄁」と刻まれている。「藤原」の後に続く字は2文字あるように見えるが,1文字だけであり,「尊󠄁」の異体字。
「和銅七年」の箇所は,資料館の多胡碑と仁叟寺多胡碑では「和銅四年」となっている。「甲寅」を年の干支を解すると,「甲寅」の年は「和銅七年」なので,多胡神社の多胡碑の方が内容的に正しく,資料館の多胡碑と仁叟寺多胡碑の「和銅四年」との記載は誤記ということになりそうだ。
しかし,通説は,「甲寅」に関し,和銅四年三月九日の干支を指すものであると理解している。そして,この点に関して特に異論はないと思われる。

さて,多胡神社は,小さな神社であり,あまり知られていない神社かもしれないが,日本国の古代史に興味をもつのであれば,一度は訪問して参拝すべき神社だと思う。


IMG_1219.JPG
多胡神社所在地付近


IMG_1196.JPG
石段


IMG_1197.JPG
説明板


IMG_1198.JPG
参道


IMG_1199.JPG
社殿


IMG_1202.JPG
境内社


IMG_1209.JPG
多胡碑所在地


IMG_1205.JPG
多胡碑


IMG_1206.JPG
多胡碑の脇にある小さな石碑


IMG_1216.JPG
石段の脇にある供養塔


IMG_1211.JPG
石段の脇にある庚申塔


IMG_1213.JPG
石段の脇にある庚申塔


IMG_1215.JPG
石段の脇にある百頭尊


IMG_1214.JPG
石段の脇にある道祖神


多胡神社の多胡碑は,碑文からしても石材の形状からしても,明らかに,『俳諧多胡碑集』に収録された多胡碑とは異なるものだ。

***

以下は,多胡神社の多胡碑ではなく資料館に保存されている多胡碑に関する現時点の調査結果に基づく補遺。

高桑蘭更『俳諧多胡碑集』に収録された多胡碑には寸法が記入されており,高4尺1寸(124cm)・濶2尺5寸(75cm)・厚1尺9寸(57cm)となっている。「濶」は「幅」と同義と解されるので,方柱状の石材ではなく,厚さが幅よりも薄い扁平な石材を用いた石碑であることがわかる。
駒井乗邨『鶯宿雑記 巻一三七』の「多胡碑考」に収録された多胡碑には寸法が記入されており,高4尺4寸(133cm)・横2尺(60cm)・厚1尺8寸5分(56cm)となっている。「横」は「幅」と同義と解されるので,方柱状の石材ではなく,厚さが幅よりも薄い扁平な石材を用いた石碑であることがわかる。
藤貞幹『好古小録 乾』の「上野國多胡郡碑」では幅の寸法だけがあり厚の寸法の記載がないので一見すると「方柱」だったと誤読しそうになるが,「蓋」の寸法にはわざわざ「方」と記載してあるので,反対解釈として,碑身は方柱状ではなく扁平だったと推定し得る。

仁叟寺多胡碑は,扁平な石材を用いているので,江戸時代の文献に記された多胡碑に近い形状をしていると言える。

資料館に保存されている現在の多胡碑の寸法は,高崎市の公式見解では高さ129センチ・幅69センチ・厚さ62センチの方柱状となっている。
寸法の相違から判断すると,資料館に保存されている現在の多胡碑は,『俳諧多胡碑集』にある多胡碑とは全く別物だと考えられる。
同様に,『鶯宿雑記 巻一三七』とも全く別物だと考えてよい。
そして,藤貞幹『好古小録 乾』の多胡碑も扁平な形状のものだったとすれば,資料館に保存されている現在の多胡碑は,藤貞幹『好古小録 乾』の多胡碑とも別物だったと考えて良い。

この点に関し,群馬県多野郡教育會編『群馬縣多野郡誌 全』(昭和2年12月27日)の346頁では,高4尺1寸5分(125.8cm)・方2尺(60cm×60cm)となっており,資料館に保存されている現在の多胡碑とは異なる寸法となっている。特に碑身の幅と厚さがかなり小さい。測定誤差の範囲内だろうか?

吉井町誌編さん委員会編『吉井町誌』(昭和49年)の211頁では,碑身の高さ127.5cm・上幅60cm・下幅63cmとなっている。これも測定誤差の範囲内だろうか?

ところで,『俳諧多胡碑集』が刊行された当時,かなり多数の複製品や模倣品が存在したことが推測される。
「資料館に保存されている多胡碑がそれらの複製品または模倣品の中の1つではあり得ない」ということは全く証明されていない。
なにしろ,現時点までの調査結果によれば,資料館に保存されている多胡碑と全く同じ寸法だと断定しても差支えのない多胡碑の記録が1つも見当たらない。

ちなみに,東野治之『大和古寺の研究』(塙書房,2011年)の447~468に収録されている「古代金石文と『耳比磨利帖』」の中では,資料館に保存されている多胡碑の碑文中に後代の改変があり得ることが示唆されている。
これまでの調査結果を前提にする限り,「古代金石文と『耳比磨利帖』」で想定されているような「本当の原文」だけで構成されている多胡碑は現存しないようだ。

このような学術論文が存在することを踏まえた上で,そもそも「石碑の前面を全部削って全面的に刻み直したものかもしれない」という可能性を完全に否定できるだけの科学的根拠があるか否か検討してみたけれども,そのような科学的根拠は全く見当たらなかった。
むしろ,現存の資料に記された寸法を前提とする限り,時代を経るにつれて多胡碑の寸法が徐々に大きくなっているという奇妙な現象がみられることからすれば,資料館に保存されている多胡碑は,幕末~明治初年頃によって新たに作成された模刻品だと理解するほうが全体としてつじつまが合うように思われる。

なお,この「古代金石文と『耳比磨利帖』」の中には横尾家秘蔵の多胡碑と三浦家秘蔵の多胡碑の写真が収録されており,とても貴重な論文だと思う。なお,東野治之氏の見解では,横尾家秘蔵の多胡碑と三浦家秘蔵の多胡碑は,いずれも後代の模刻品とされている。
***

資料館に保存されている現在の多胡碑をオリジナル(原本)であると決めた上で判断することがそもそも誤りであることは既に述べてきたとおりだ。

資料館に保存されている現在の多胡碑が「オリジナル(原本)であること」は,証明の対象(命題または仮説)なので,当該多胡碑それ自体とは全く異なる判断基準や証拠によってその命題または仮説が証明されなければならない。

現時点において,そのような証明は存在しない。



 隠居の思ひつ記:史跡看板散歩-226 上里見町の多胡神社

 公卿類別譜:和暦・西暦対照表 711年1月1日(和銅3年12月4日)〜712年12月31日(和銅5年11月25日)



この記事へのコメント