名取市高舘:高舘城跡(その1)
過日,熊野那智神社を参拝した後,高舘城跡(宮城県名取市高舘吉田)を見学した。
名取市史編纂委員会編『名取市史』(昭和52年)の897~898頁に高舘城の解説がある。
一般に,高舘城は,安元元年(1175年)に藤原基衡または藤原秀衡が築城した城とされている。
私見としては,高舘城と名取熊野別当との関係がもっと詳密に検討されるべきではないかと思う。
また,現存の城跡は,奥州藤原氏によって築城された当時のままではなく,室町時代~戦国時代頃に大規模に拡張された後の城跡だと思われる。熊野那智神社の境内地も高舘城の一部として機能していたのだろうと推定される。
永禄年間に伊達種宗が一時居城し,その後,伊達種宗の家臣・福田駿河守を城主として置いたとされているので,現在の城跡は,その頃に拡張されたものだろうと思われる。
一般に,奥州藤原氏が源頼朝の軍に敗れたことは広く知られているけれども,奥州藤原氏が隆盛を誇っていた頃のその領地の範囲を知っている人は意外と少ないのではないかと思う。まして,要害の地に比較的大規模な山城を築城していたことを知っている人は少ないかもしれない。
東北地方に住む人の中で歴史に興味をもつ人であればある程度まで知っているかもしれない。しかし,奥州藤原氏の実力の程度に関し,関東地方ではほとんど知られていないし,西日本ではそもそも興味をもつ人が滅多にいないのではないかと想像される。
奥州藤原氏の歴史に関する可能な限り正確な情報の整理と普及・広報が必要ではないかと思う。そうしなければ,せっかく重要な遺跡が存在していても,観光開発にも地元振興にも寄与・貢献しないことになる。
さて,高舘城跡への遊歩道の入口は高舘観音堂のすぐ近くにある。分岐点に説明板が立てられている。説明板のある場所から南東付近は,那智神社別当物響寺跡となっている。
説明板の中にある案内図に従い,そこから深い空堀のようになった道をずっと下りると高舘城跡の西側~南側~東側を通る遊歩道に至る。ここから先は,本丸入口付近まであまり下ることなく概ね同じ高さのところを歩く。
高舘城跡の西側付近~南側付近まで遊歩道を歩き,本丸入口から幾つかの腰郭と空堀のような場所を登って本丸に至り,本丸内の漢学可能な場所の様子を見学した。
本丸から東の方に伸びる細長い尾根も郭の1つであり,その先端には高舘山古墳と呼ばれ,宮城県内最古級と推定されている全長60mの前方後方墳がある。
しかし,私の残存体力と運動能力ではその所在地まで到達することは全く不可能だと悟り,高舘山古墳の見学を断念した。
高舘城跡の本丸入口から東の方に下ると山裾に到達する。そこにも遊歩道利用者のための駐車場があるらしいのだが,確認していない。
高舘城跡の説明板
空堀のような道(階段が続く)
空堀のような道(続き)
空堀のような道の終点~遊歩道(高舘城跡西側)付近
高舘城跡西側を通る遊歩道(西丸下付近)
遊歩道から見上げた西丸と思われる場所付近
高舘城跡南西側付近
秀衡が崎(右手)との間にある空堀
同上
小さな峠のような場所
高舘城跡南東側付近
本丸南東側下にある急崖
高舘山古墳の表示のある場所
(この場所から見えるという趣旨と思われるが,見えない)
高舘山古墳の表示
高舘山古墳の表示のある場所東側の急崖
高舘山古墳所在地となっている細長い尾根の先端部報告
(急崖斜面の木々に遮られて高舘山古墳の墳丘は見えない)
石の供養塔など
高舘城跡東側にある小さな峠のような場所
高舘城跡の標柱所在地
(ここからは帯郭のような場所までは行けるけれども,本丸には到達できない)
高舘城跡の標柱所在地から少し登ったところにある帯郭のような場所に至る細い道
本丸東側下にある帯郭のような場所
同上
本丸東側の急崖
高舘城跡の標柱
高舘城跡の標柱の向いにある赤い頭の境界杭
(この場所から急崖を下った先の狭い尾根道の先端に高舘山古墳がある)
境界杭の先にある急崖
(ここから下るのは極めて危険・いったん下ると元の場所まで登ることはほぼ無理)
高舘城跡の標柱のある場所から山の東側裾に降りる遊歩道
名取市:高舘城跡
名取市:高舘山古墳
余湖:高館城(名取市高館字吉田)
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