高崎市吉井町神保~多胡:仁叟寺上の古墳群(その5)

過日,仁叟寺(群馬県高崎市吉井町神保)の裏(南側)の台地上(台地北西縁付近)にある古墳群を見学した。

この古墳群は,東〆木古墳群(高崎市吉井町神保東志免木)の古墳,その北東側に隣接する古墳群(高崎市吉井町神保寺ノ上)の古墳及び近隣地(高崎市吉井町多胡〆木など)の古墳を含む多数の古墳で構成されるかなり大規模なものだ。
墳丘が残されている古墳が比較的多く,また,現在では墳丘の大部分が削平されている古墳でも古墳の所在地が明確にわかるものが少なくない。
おそらく,古墳群所在地の地下には,隙間が全くないくらいいっぱいに古墳の地下遺構が包蔵されているのだろうと推定される。

将来,この古墳群所在地が史跡公園化されたときには新たに名称が定められる可能性があるので,このブログ記事では仮に仁叟寺上の古墳群と呼称することにする。

個々の古墳の特定についても,将来,新たな名称の下で古墳群としてまとめられ,現在とは別の呼称(古墳番号)が付される可能性がある。そこで,このブログ記事では,個々の古墳の特定のために必要となる過去の呼称を併記して記載することにした。
なお,「遺跡地図番号」とは,「マッピングぐんま」の遺跡ポータルのサイトの中で表示される「市町村遺跡番号」のことを指す。高崎市古墳番号は,『群馬県古墳総覧2017』の中で示されている高崎市所在古墳の通し番号のことを指す。

古墳群所在地中の北西端付近には四阿がある。
この四阿の西側には南北に散策路が設けられており,その散策路の北端から台地を降りることができる。
この散策路から西側の部分には平坦地が存在するのだが,推測としては,過去において耕地または建物敷地等とするために掘削されてこのような形状になっているのではないかというような印象を受けた。遺跡としては,平安時代の集落遺跡の遺跡包蔵地となっている。

この散策路の西側の土地にある古墳を北端の古墳から南端の古墳まで順に見学した。

ただし,「マッピングぐんま」の遺跡ポータルのサイトの中では十分に正確な情報が提供されていない。現時点では調査不十分ということなのではないかと想像される。
やむを得ず,推定に基づいて古墳の附番を記載することにしたが,いずれも確実ではない。


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北東の方から見下ろした四阿周辺の様子


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散策路の西側部分付近から見える景色


四阿の西側には小山のようなものがある。その全体が古墳の墳丘なのかどうかに関して,若干疑問がある。
遺跡地図番号03170の古墳(直径7.8m・高さ2.0m)(高崎市1462号墳・T221号墳)に該当するものと推定したが,確実ではない。所在地は,「高崎市吉井町神保寺ノ上」となっている。


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四阿の西側~南西側にある古墳の様子(南東の方から見た様子)
(手前はT227号墳?)
(奥はT223号墳(左)・T222号墳(中央)・T221号墳(右))


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南の方から見た遺跡地図番号03170の古墳(T221号墳)


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東の方から見た遺跡地図番号03170の古墳(T221号墳)


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北東の方から見た遺跡地図番号03170の古墳(T221号墳)
(左手奥はT222号墳)


遺跡地図番号03170の古墳(T221号墳)の南西側に隣接して2基の円墳が連続しているようにも見え,あるいは,前方後円墳のようにも見える古墳がある。「マッピングぐんま」の遺跡ポータルの中では2基の古墳として扱われており,『群馬県古墳総覧2017』の中にある詳細データも同じなので,このブログ記事でも2基の古墳として記述することにするけれども,再検討の余地があるのではないかと思う。

2基の古墳として理解した場合,北側から順に,遺跡地図番号03171の古墳(直径13.9m・高さ3.0m)(高崎市1463号墳・T222号墳),遺跡地図番号03172の古墳(直径10.6×7.2m・高さ2.0m)(高崎市1464号墳・T223号墳)に該当するものと推定したが,確実ではない。そもそも,基礎となる計測が誤っている可能性がないわけではない。所在地は,「高崎市吉井町神保寺ノ上」となっている。


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全体として前方後円墳のようにも見える2基の古墳


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南東の方から見た遺跡地図番号03171の古墳(T222号墳)


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南の方から見た遺跡地図番号03171の古墳(T222号墳)
(右手奥はT221号墳)


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東の方から見た遺跡地図番号03172の古墳(T223号墳)


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北の方から見た遺跡地図番号03172の古墳(T223号墳)の墳頂付近
(中央奥はT224号墳)
(左手奥はT226号墳)


遺跡地図番号03171の古墳(T222号墳)の東側には破壊された古墳のような場所がある。墳丘はほとんどないけれども若干膨らんだ塚状地形となっており,古墳由来と思われる多数の石材がある。ただし,墳丘のように見える塚状部分は,遺跡保護のための覆土かもしれない。
高崎市1468号古墳(T227号古墳)に該当するのではないかと推定したが,確実ではない。所在地は,「高崎市吉井町神保寺ノ上」となっている。


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南東の方から見た高崎市1468号古墳(T227号古墳)?


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南の方から見た高崎市1468号古墳(T227号古墳)?


高崎市1468号古墳(T227号古墳)と思われる古墳の南側に隣接して,やや高さのある古墳がある。遺跡地図番号03174の古墳(直径6.7×7.0m・高さ2.0m)(高崎市1466号墳・T225号墳)に該当するものと推定したが,確実ではない。所在地は,「高崎市吉井町神保寺ノ上」となっている。


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南東の方から見た遺跡地図番号03174の古墳(T225号墳)


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北東の方から見た遺跡地図番号03174の古墳(T225号墳)


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東の方から見た遺跡地図番号03174の古墳(T225号墳)
(右手奥は遺跡地図番号03172の古墳(T223号墳))


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南東の方から見た遺跡地図番号03174の古墳(T225号墳)
(右手奥はT222号墳)
(左手奥はT223号墳)


遺跡地図番号03172の古墳(T223号墳)と思われる古墳の南側には,何となくのっぺりとしたような形の塚状地形がある。遺跡地図番号03173の古墳(直径11.0m・高さ1.6m)(高崎市1465号墳・T224号墳)に該当するものと推定したが,確実ではない。所在地は,「高崎市吉井町神保寺ノ上」となっている。


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東の方から見た遺跡地図番号03173の古墳(T224号墳)


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北の方から見た遺跡地図番号03173の古墳(T224号墳)
(奥はT226号墳)


遺跡地図番号03174の古墳(T225号墳)と思われる古墳の南側にやや大きな塚状地形がある。遺跡地図番号03175の古墳(直径8.8×6.2m・高さ3.0m)(高崎市1467号墳・T226号墳)に該当するものと推定したが,確実ではない。所在地は,「高崎市吉井町神保寺ノ上」となっている。
なお,遺跡地図番号03175の古墳(T226号墳)と思われる古墳の南側には2基の小塚のようなものがある。
これらの2基の小塚は,古墳ではなく,道路工事等のために既に隠滅した古墳から出た石材を積み重ねた塚(「ヤックラ」の一種)ではないかと判断した。

仮に古墳に該当するとすれば,これまで古墳として記録されたものの中では,高崎市1470号墳(直径7.8×6.9m)(T229号墳)が該当し得るのではないかと考えられる。


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南西の方から見た遺跡地図番号03175の古墳(T226号墳)


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南の方から見た遺跡地図番号03175の古墳(T226号墳)


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東の方から見た遺跡地図番号03175の古墳(T226号墳)
(左はヤックラ?)


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南東の方から見た遺跡地図番号03175の古墳(T226号墳)
(中央手前はヤックラ?)
(左手奥はT229号墳またはヤックラ?)


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北の方から見たT229号墳に該当すると思われる塚(ヤックラ?)


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西の方から見たヤックラと思われる塚


遺跡地図番号03175の古墳(T226号墳)と思われる古墳所在地の南西側下の斜面上にはもう1基の古墳のようなものがある。道路を建設した結果としてこのような地形が生じたものかもしれず,古墳なのかどうかが明確ではない。
この塚状地形が仮に古墳に該当するとして,これまで古墳として記録されたものの中では,高崎市1471号墳(直径11.1×8.5m)(T230号墳)または高崎市1472号墳(直径10.2×12.0)(T231号墳)が該当し得るのではないかと考えられる。所在地は,「高崎市吉井町神保寺ノ上」となっている。


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北の方から見たT230号墳またはT231号墳に該当すると思われる塚


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同上(ズーム)


以上で,仁叟寺裏(南側)の台地上にある古墳群を一応全部見学し終えた。将来,史跡公園として整備されることになるのではないかと予想される。
周辺の古墳や既に隠滅した古墳を含めて考えると,とても立派な大規模古墳群であり,羊太夫とその一族との関係も大いにありそうだ。今後の発展に期待している。

多胡碑に刻まれている人物として知られる羊太夫は,「多胡羊太夫」と表現されることはあるが,「池羊太夫」と表現されることはない。



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