高崎市吉井町神保:仁叟寺と多胡碑(その2)

過日,曹洞宗・天祐山公田院仁叟寺(群馬県高崎市吉井町神保)を参拝した。本尊は,釈迦牟尼仏。

仁叟寺の本堂を参拝した後,多胡碑を拝見し,境内を散策,諸堂を参拝した。

仁叟寺には多胡碑がある。一般に「仁叟寺多胡碑」と呼ばれているようだ。
この多胡碑は,吉井町塩地区の向井家において長い間秘蔵されてきたものが仁叟寺に寄贈され,昭和51年に堅牢な古照堂が建立され,以後,その古照堂の中で保存されてきたものとのこと。
許可を得て堂の扉を開けて拝見した。
これまで見た多胡碑の中では最も古いものだと判断した。
仁叟寺の多胡碑の形状は,群馬県多野郡教育會編『群馬縣多野郡誌 全』(昭和2年12月27日)の口絵写真にある多胡碑の形状とは異なる。

一般論として,資料館にある多胡碑がオリジナル(原本)であると最初から決めつけて考察すると,仁叟寺の多胡碑は,模刻品ということになりそうだ。
逆に,資料館にある多胡碑が江戸時代に(例えば,特定の書家の名声欲や特定の者の拓本販売収入による金銭欲のゆえに)六朝体の書体であることを殊更に強調して製造された拓本製造用の石碑のようなものだったものがいつのまにか原本とされるようになってしまったものだと仮定すると,仁叟寺の多胡碑の方がオリジナル(原本)であるという仮説を否定することができなくなる。
つまり,観点を変えるとどちらの見解も説明がついてしまうことになる。要するに,現在の通説が絶対的に正しいということを論証することは不可能だ。

以上に述べたこととは別に,近隣地にある多胡碑に関し,『群馬縣多野郡誌 全』の352頁には,多胡碑の複製物のような石碑が複数存在していたことも示唆されており,「北甘樂郡高田村横尾氏多胡碑を秘蔵して居る。それが頗る相似形のもので榻本にしてもどちらが本ものかわからない位である」云々と記されている。
この横尾氏秘蔵の多胡碑の由来に関し,同書352頁には,「殊に今から五六十年前までは多胡郡本郷村の古塚の蓋石に成って居たののを甘樂郡高瀬村斎藤氏の手に歸し遂に明治二十三年頃現所有者の手に移ったものだといふ」と書かれており,古墳由来の石材を用いた模刻品ではないかとの見解を示している。
古墳石室の閉塞石が破壊されて石室内部が空となった後に,その古墳の石室を蔵(石室)として二次利用するための扉石として用いられていた(元は他所にあった)石碑だったという可能性の有無には全く触れられていない。想定外だったのだろうと推測される。
この横尾氏秘蔵の多胡碑とされる石碑が現存するかどうか不明であり,横尾氏秘蔵の多胡碑としてはまだ拝見していない。
なお,「北甘樂郡高田村」の所在地は,現在の「妙義町上高田」を含む地区が該当する。「多胡郡本郷村」は,現在の吉井町本郷地区付近が該当する。吉井町本郷地区の北部には吉井町86号墳などのとても立派な古墳が存在し,同地区の南部には穂積神社が鎮座している。吉井町本郷地区北部にある現存古墳は既に見学している。
これらの古墳のどれかが上記の「多胡郡本郷村の古塚」に該当し得るのではないかと思われる。このブログ記事とは別に,後でそれらの本郷地区にある古墳の記事を書くことにする。

直観的な印象としては,仁叟寺の多胡碑と比較すると,資料館にある多胡碑は,石材それ自体としては,(ひび割れの状態やひび割れ部内の風化状態の観察結果からすると)かなり新しいものではないかと考えられる。
資料館発行の資料を含め,文献によって,多胡碑の元の状況の記述が区々になっており,物理的に同一の石碑について書かれているとは思われないのだが,その点を一応措くとしても,特に資料館発行の資料に記されている状況の記載内容を前提とする限り,「どうも変だ」または「つじつまが合わない」と感じないわけにはいかないのだ。
もっとも,資料館で発行している関連資料では『吉井町誌』の中にある考察や記述をそのまま転載または転用しているだけの部分が多いので,資料館所属の学芸員に直接的な文責のある問題であるとは言えないかもしれない。

現時点における中間的な結論としては,江戸時代の多数の紀行文の中に登場する多胡碑は,これら複数存在していた多胡碑(原本,複製品,模刻品,模倣品等)の中のどれかを記録したもので,単一の多胡碑に関する記録ではないと断定できると考える。

この点に関して,「単一の多胡碑しか存在しなかった」という客観的事実に反する前提条件を肯定しなければ成立しないような見解が存在するが,空理空論だと断定できる。『集古十種』の編纂者である松平定信は,当時流布していた拓本中の1つを採用しているだけであり,現地を調査しているわけではない。また,逆に,『集古十種』に採録されている拓本を元にしてその模刻品または模倣品を作成することは可能だったと考えられる。

学術研究として本来なされなければならないことは,多胡碑に該当し得る現存石碑,多胡碑の模刻品または模倣品等に該当し得る現存石碑,そして,それらの石碑の古い拓本の全てを完全に調査し,デジタル3Dデータとして記録した上で,江戸時代の複数の文献に記されている多胡碑のどれが現存するどの多胡碑と一致するか(または,滅失した多胡碑のどれと一致するか)を(AIを駆使したトポロジー手法の応用により)検討・分類整理し,体系化し,学術論文としてまとめあげる仕事である。

また,吉井町とその周辺にある多胡砂岩の産地の特性を調べ,個々の石碑や古墳石室材等がどの場所から切り出されたのかを系統分類するような調査研究も実施し,学術論文としてまとめあげるべきだと思う。


IMG_4693.JPG仁叟寺境内


IMG_4649.JPG古照堂


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仁叟寺多胡碑


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古照堂前の敷石


古照堂の多胡碑を拝見した後,境内の古樹や堂宇を拝見した。


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五輪桜


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モクの木


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稲荷大明神


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薬師堂


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十三重大石寶塔


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文殊堂正面


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文殊堂側面


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文殊堂側面


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大聖文殊菩薩


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願掛け穴不動
(横穴墓の二次利用物?)


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同上


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子育観世音菩薩
(背後は〆木古墳群等の古墳群のある山)


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胸像
(背後は〆木古墳群等の古墳群のある山)


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胸像の説明板


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駐車場前にある塔(龍王?)


他方,吉井町誌編さん委員会編『吉井町誌』(昭和49年)の194~195頁には伴信友が多胡碑の碑文の書体それ自体について芸術性を認めていなかったことを非難する論述がある。

しかし,一般に,碑文の形状等を芸術的に高いレベルのものまたは美的に優れたものと感ずるかどうかは各人の思想信条の自由の範囲内にある。誰かが美しいと思っても何とも感じない自由もある。
特に,町誌の編纂は,日本国憲法に定める憲法遵守義務のある公権力主体及びその公務員によって実施されるものなので,(公務員またはみなし公務員としての)筆者担当者の美的感覚を他者に対して強要していると読まれるような書き方,または,個人的な見解に過ぎないものを公的な権威を借りて公表していると読まれるような書き方は,絶対に避けるべきだと考える。
読者としても,そのような美的評価に関する記述部分に関しては,何らの権威も強制力もないし,あってはならないと理解すべきだと思う。

資料館にある多胡碑の書体(外形的形質)が美的に優れているかどうかという点に関し,私は,本音では美しいとは思っていない。逆にかなり稚拙なものだというような印象を受ける。
このように思い,このように表現することは,私が私人の一員である以上,思想信条の自由・表現の自由の一部に属する。
無論,私自身の美的感覚が狂っているということ,または,私自身の観察や評価が拙劣であるということは十分にあり得ることなので,この点に関する私見を他者に強要する気は全くない。



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