佐久市望月~協和:尾崎古墳群(その2)

2022年11月初旬のことだが,尾崎古墳群(長野県佐久市望月)を見学した。

望月町教育委員会編『望月町文化財調査報告第5集 望月町遺跡詳細分布調査報告書』(1981年3月)に尾崎古墳群の1号墳~5号墳の記載がある。
古墳の所在地に関しては,同報告書の図3の遺跡番号22の1~2に1号墳と2号墳の所在地が示されており,図3の遺跡番号92の1~3に3号墳,4号墳及び5号墳の所在地が示されている。

尾崎古墳群の4号墳の所在地は,現在の国道142号線望月交差点(新尾崎橋の南東側)付近のようだ。現在では完全に隠滅している。
望月町誌編纂委員会編『望月町誌』(1994年)の214~215頁にその発掘調査結果が転載されている。
その記載においては,「昭和初期の開墾でほぼ完全に破壊されており,わずかに石室基底部の状況をうかがえるにすぎない。その基底部も石が移動しており,判然とする部分は少ない」としつつ,玄室長約5.5m・羨道長1.6m・石室全長約7.1mの横穴式石室をもつ7世紀中頃築造の古墳と推定している。

尾崎古墳群の3号墳と5号墳は,望月地区ではなく,その西側に隣接する協和地区にあり,細長い山の尾根の裾(墓地区画)付近に3号墳があり,3号墳所在地の少し南西側尾根上付近に5号墳がある。
この山の尾根から東側の山裾付近は墓地となっている。古墳の残骸と思われるものが散見されるので,かつては,この墓地区画にも古墳が存在したのではないかと思われる。

尾崎古墳群の3号墳と5号墳の所在地は,天神城跡(遺跡番号132)の遺跡の北東に位置している。
3号墳と5号墳との間の尾根上には短い堀切のようなものがあるので,この細長い山の尾根全部が天神城の一部を構成しており,3号墳と5号墳の所在地付近も天神城の一部だったのだろうと推定される。

『望月町誌』の記載では,3号墳と5号墳も既に隠滅していることになっている。
しかし,『望月町文化財調査報告第5集 望月町遺跡詳細分布調査報告書』には3号墳と5号墳の測量結果が示されており,現地には確かにそれらしい塚状地形があったので,まだ残存しているのだろうと判断した。
ただし,その場所を掘ってみたわけではないので確実ではないが,『望月町誌』の記載を尊重するとすれば,これらの塚状地形に見えるものは古墳の墳丘残部ではなく,既に隠滅した古墳由来の石材を積み上げた塚に過ぎないということになるだろう。

私見としては,3号墳と5号墳の所在地が開墾による耕作に適さない狭い尾根上であること,いずれも古い石仏を祀っていることを重視し,古墳が残存していると考えたい。
厳密には,現代の非破壊探査装置等を用いた科学的な調査を待つしかない。


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3号墳と5号墳所在地の東側にある墓地
(北東の方から見た様子)


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3号墳と5号墳の所在地付近
(望月交差点の方から見た様子)


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尾崎橋付近から見た八丁地川の流れ


『望月町文化財調査報告第5集 望月町遺跡詳細分布調査報告書』の記載によれば,尾崎古墳群の3号墳は,径11×14m・高さ2.5mの古墳とされている。円墳と思われる。
現況は,大日如来を祀る信仰塚として二次利用されているような状態となっている。この大日如来は,「万治の石造大日如来」と呼ばれるもので,佐久市の有形文化財に指定されている。
石造大日如来の手前にある敷石は,古墳由来の石材かもしれない。下記の「信州の文化財を探す」のサイトでは,「天神城跡北尾根突端に存在する古墳上に造立された丸彫の金剛界大日如来である」と説明している。


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3号墳


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石造大日如来


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墳頂付近の様子


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北西の方から見た3号墳の所在地付近


5号墳は,3号墳の南西約20mの尾根上にある。5号墳は,径12×12m・高さ2.5mの古墳とされている。円墳と思われる。
3号墳と5号墳の間には小規模な堀切のようなものがある。天神城の遺構の一部と思われるが,古墳の周溝を二次利用して堀切様のものを構築したのかもしれないと思った。


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北の方から見た5号墳


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5号墳の墳頂付近


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西の方から見た5号墳所在地付近


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新尾崎橋付近から見た八丁地川の流れ



 信州の文化財を探す:万治の石造大日如来



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