高崎市吉井町池:多胡碑とその周辺(その1)
過日,多胡碑記念館(群馬県高崎市吉井町池)を再訪し,関連遺跡等を見学した。
現在,「多胡碑を安置した御堂の(昭和初期の)写真が決め手になる」ということを根拠として,現在の所在地に元からあったと理解する見解が優勢。多胡碑の現在の所在地にはその旨の説明板がある。
土生田純之・高崎市編『多胡碑が語る古代日本と渡来人』(吉川弘文館,2012年)のような著名な書籍では,現在の場所に昔からあったということを前提にしている。
しかし,多胡碑がどこに立てられていた石碑なのかについては,争いが全くないわけではない。
この問題について,私なりに調査と検討を継続してきた。
昭和初期及びそれ以前の時点における多胡碑の状態を記録した文献を探してみたところ,群馬県多野郡教育會編『群馬縣多野郡誌 全』(昭和2年12月27日)と吉田東伍『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』(冨山房,昭和45年)の中にその記述があった。
『群馬縣多野郡誌 全』の口絵写真の中には多胡碑の白黒写真がある。この多胡碑の写真は,辛科神社の写真と並べて掲載されている。
この写真を見る限り,石材の上刻まれた文字の鮮明度は,現況よりも鮮明で読み取りやすい。石材の形状は,現況の石材とは若干異なる。
この写真の中には台座石が写っているが,現在の多胡碑の所在地では台座石が遮蔽物によって隠されているため,実物の台座石の実物を見て比較することができない。
和田健一「多胡碑の江戸時代」(平成30年3月2日)という配布資料には,明治時代以降に描画された多胡碑の図と写真等が掲載されている。これによれば,大正15年の黒坂勝美『史跡精査報告』の段階ではまだ明治時代に新調された台座石があったようなのだが,『群馬縣多野郡誌 全』に掲載されている多胡碑の台座石とは異なるもののように見える。
「多胡碑の江戸時代」の中に現在の状態として撮影された多胡碑の写真では,台座部分がコンクリートで固められた全く別物になってしまっており,有形文化財としての価値を大幅に喪失させているように見える。
吉井町誌編さん委員会編『吉井町誌』(昭和49年)の口絵写真の中には多胡碑のカラー写真がある。そこに撮影されている台座石は,明らかに新調されたもののように見え,明治11年当時につくられた台座石のようには見えない。コンクリートで固められたような状態となった後の写真ではないかと思われる。
群馬県立歴史博物館にあるレプリカの多胡碑の台座石が真の台座石の形状を正確に反映するものかどうかは,よくわからない。
辛科神社の境内にある多胡碑(複製物)の台座石は,『群馬縣多野郡誌 全』の白黒写真にある多胡碑の台座石とほぼ同じ形状のもののように見える。
台座石に関し,『群馬縣多野郡誌 全』の346頁には「現今の臺石は明治十一年に新たに添加したものである。恐らくは碑身建設當初より全く臺石を缺いてゐたものと思はれる」,「明治十一年頃は簡單な木柵を繞らせるのみで,雨露に晒されてゐたものであったが,當時縣令楫取素彦の代に縣費の補助を仰ぎ有志の寄附を受けて碑亭を設け尙ほ木棚を作り庭園を擴げて現狀の如くにされた。爾来管理の方法多少の變動はあったが,專ら吉井町長の管理に属し,遂に大正十年三月三日史績名勝天然記念物保存規定により保護を要すべきものと認められ指定せられた」との注記がある。
明治11年に台座石がつくられた理由は,ここに書かれているとおりではなかったかもしれない。例えば,本来は他所にあった多胡碑の本体の石と笠石だけが現在の所在地に移動されたからというようなことを想定することは可能だ。そのような真の経緯が他人にはあまり知られたくないものである場合,または,真の経緯がすでに忘れ去られてしまっていた場合などには,上記の『群馬縣多野郡誌 全』の346頁にある「恐らくは碑身建設當初より全く臺石を缺いてゐたものと思はれる」との記述のような,どうにも曖昧な(または,ごまかすための)書きぶりとなってしまうことはあり得る。
なお,大正10年の史績名勝天然記念物保存規定に基づく指定の際の指定書の原本の存否及びその内容については,まだ調べていない。
昭和2年当時における多胡碑の所在地に関し,『群馬縣多野郡誌 全』の346頁には,「吉井町大字池(吉井驛より東北へ約二十町)にある」と書かれている。
二十町は約2.2キロメートルに相当するので,現在の多胡碑記念館付近がその場所に該当し得る。
なお,同書同頁には,注記として,「附近二十餘戸の住民その氏子となり,春秋の祭祀を怠らず」とも記されている。この記述もまた昭和2年当時の様子を記述したものと考えられる。
江戸時代当時における多胡碑の所在地に関し,『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』の747頁にある「多胡郡羊太夫碑」の解説文の中では,伊藤長胤の『蓋簪録』を引用し,「本郷村にありといへり,今本郷村は池村の西にあり,昔は池村も其村内にや(名跡志云,下池村小字三門の稲荷社地に存す)」と解説しているので,『蓋簪録』が書かれた当時における池村の地理的範囲は,現在の地理的範囲とは相当に異なっていたと推定される。
なお,現在の吉井町の本郷地区内に稲荷神社が存在するかどうかは不明。本郷地区内で容易にアクセス可能な神社は,穂積神社のみ。穂積神社は,元は火蛇神社と称し,明治時代に他の神社を合祀した上で穂積神社と改称した。この穂積神社と穂積親王との関係の有無は不明。
ちなみに,当時における本郷村の正確な地理的範囲も不明。
「池」という地名がどの時代から存在する地名なのかに関し,『群馬縣多野郡誌 全』の667頁には,「池」との地名の由来に関して「傳説なく古記録なく」と書かれているので,古い時代からの地名ではないのかもしれない。
他方,多胡碑の所在地に関し,『群馬縣多野郡誌 全』の351~352頁では,多胡碑に関し,落合村宗永寺縁起の中にある「今池村碑是也」との記述を引用している。
現代文に訳すと「現在の池村の碑がそれに該当する」という意味になる。
ただし,落合村宗栄寺縁起の中にある「池村」の範囲がどの時点(年代)の「池村」の範囲を指すのかは全く不明。
多胡碑の文面それ自体の中には「池」の地名はない。
一般には,古代の「大家(おおやけ)郡」が現在の「池」の所在地に相当すると解するのが普通の見解のようだ。
この見解を基礎とすると,「おおやけ」が訛って「いけ」になったということになりそうなのだが,別の見解もあり得る。
一般的には「いけ」との類似性から「おおやけ」の所在地を推論しているので,思考方法が逆転している。
ちなみに,多胡碑記念館のすぐ近くにある大宮神社(祭神・天鈿女命)は,鎮座地の呼称が「大宮」であったことから神社の呼称になっているようなのだが,この「大宮」は後の時代に「大家」から転じて生成された地名なのではないかと考えられる。
集落跡の遺跡包蔵地であり,官衙跡の遺跡包蔵地ではない。
大宮神社には八坂神社(素戔嗚尊)も合祀されているが,明治時代に合祀されたもので,元は素戔嗚尊とは全く無関係の神社だった。羊大明神は祀られていない。
『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』の746頁では,「追野部」が「大家」の遺号であるとし,多比良村の追野部(オヒノベ)という場所(「昔は追部といへる由」)が大家の所在地に該当するとの旨の見解を紹介している。この場所は,現在では「追部野」または「追辺野」と表記されているので,表記に変遷があったか,または,『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』の746が引用している文献に誤記・錯誤が存在するかのいずれかだろうと思われる。
『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』の747頁には「池」に関し,「或は井池といふ。吉井の東北半里,鏑川に臨める岡上の地にして,今吉井町の大字に呼ぶ。其地に池沢を見ず,名義詳ならず」と書かれている。
この『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』の記述における「池村」の範囲は,現在の池地区の範囲とほぼ同じと見てよい。
ただし,江戸時代以前の池村地内の様子を記述したものではない。
「或は井池といふ」と記されている「井池」の所在地に関して,多胡小学校は,明治時代の創設時(明治6年)には「神保小学校」との名称であり,曹洞宗・天祐山公田院仁叟寺(群馬県高崎市吉井町神保)にあり,明治7年に旧庄名をとり「井池小学校」に改称したとのことなので,「井池」の所在地は,現在の吉井町神保地区(及びその周辺)であり,「井池」はその旧庄名ということになる。
つまり,「井池」を含むものとしての「池村」の範囲は,現在の吉井町の神保地区をも包含するかなり広い範囲内のものと考えざるを得ない。ところで,一般に,式内社のような非常に古い神社は,神聖な「井」すなわち泉や水源地を守護するという重要な役割を担ってきた。それゆえ,一般論としては式内社の近くに「井」が存在した可能性が高いのだが,吉井町の地理的範囲内でその候補となり得る神社を探してみると,現在の吉井町の地理的範囲内に存在していた式内社としては,辛科神社(辛科明神)に加え,物部明神(石神村),郡御玉明神,鳥總明神,櫛子明神(小串村),穂積明神(本郷村),馬片山明神,有志古明神(多比良村)などの神社があり,合計15の神社(多胡郡十五社)があったとされているので,これら全部がその候補となり得る。ちなみに,1つの郡内にこれだけ多数の式内社が存在する地域というものも珍しいと言える。これらの神社は,郡衙の出張所または支部のような社会的・経済的・政治的役割を担っていたのではなかろうか?
以上の諸点を踏まえた上で,「井池」の地理的範囲に関する『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』の747頁の記述には混乱または錯誤があるようにも見えるが,単に,調査不足のためにこのような記述になってしまったのかもしれないとも考えられる。
多胡碑の過去の記録に関し,『群馬縣多野郡誌 全』の350~352頁には,文献史料上に示されている多胡碑のことが書かれている。
その記述によると,最も古い記述は,永正6年(1509年)の紀行『東路のつと』とされているけれども,「多胡郡の古碑に石上尊とあること」が記されているだけなので,確実に多胡碑を指すものなのかどうかはわからない。
その後,江戸時代になって,多胡碑の存在がようやく広く知られるようになったようだ。
なお,吉井町の池地区の南には「石神」という地区があり,その地区内(高崎市立入野中学校敷地内)には入野遺跡の遺跡包蔵地がある。
吉井町誌編さん委員会編『吉井町誌』(昭和49年)の192~193頁は,『山吹日記』(天明6年)の中にある「池村に入る。ここに古き石文がある。和同四年のことをほりつけたもので,土地の人は羊の碑と称している。領主は長崎弥之助である。領主が縁あって,たまたま伊藤東涯に多胡碑のことを話したのがきっかけで『蓋簪録』に採録され,世間にもようやく知られるようになった」との文を引用している。
この『山吹日記』の文のとおりであったとすれば,多胡碑の所在地は,遅くとも天明6年頃には(当時の地理的範囲における)池村の地理的範囲内のどこかだったということになる。
ところで,上述のとおり,伊藤東涯は,多胡碑の所在地を現在の吉井町の本郷地区としているので,『山吹日記』に書かれている多胡碑の所在地もまた,結果的に,現在の吉井町の池地区ではなく本郷地区だったということになるかもしれない。
そして,多胡碑の価値が認識され,その複製品のような石碑や類似石碑がつくられるようになったのは,その頃以降だと考えることも可能と思われる。
一般に,拓本があれば複製物を製造することは容易なことなので,天明時代当時に拓本を採取することが禁止されたことがあるのは,そのような出来事があったからかもしれない。
しかし,詳細はわからない。
多胡碑の過去における取扱いに関し,『群馬縣多野郡誌 全』の351頁には,多胡碑が「羊大明神」として祀られていた旨が記されている。
この記述の趣旨は明確ではなく,どのようにして祭祀の対象とされていたかについての記述が含まれていないが,もともとは神社の境内地に祀られていたものという趣旨かもしれない。
もしそうであるとすれば,明治維新後に群馬縣令が積極的に保護策を講じて吉井町長の管理下に置かれるようになって以降,従前の所在地から現在の地に移築・移管され,保存されることになったと理解するのが正しいのではないかとも思われる。
羊大明神として祀っていた神社が正確には現在のどの神社に相当するかについては議論が分かれる。
辛科神社の境内地が多胡碑の本来の所在地だという見解を前提にすると,辛科神社がその神社となるのだが,辛科神社は稲荷神社ではない。
上述の穂積神社(旧火蛇神社)もまた,稲荷神社ではない。
なお,羊の形をした大明神または山羊の形をした大明神とは祇園神そのものなので,素戔嗚尊を祀る神社以外には該当しそうな神社がない。少なくとも稲荷神ではない。
他方,多胡碑のオリジナル及び複製物に関し,『群馬縣多野郡誌 全』の352頁には,多胡碑の複製物のような石碑が複数存在していたことも示唆されており,「北甘樂郡高田村横尾氏多胡碑を秘蔵して居る。それが頗る相似形のもので榻本にしてもどちらが本ものかわからない位である」云々と記されている。
(現代の博物館や資料館等で展示されている多胡碑のレプリカを除き)多胡碑の複製物及び類似の石碑は,現在でも各所に複数ある。江戸時代頃に多数の複製品または類似品が製造され,神社等に奉納された可能性があると考えられる。
つまり,現時点において「多胡碑」と考えられている石碑が多胡碑の唯一のオリジナル(原本)であるとは限らない。
現在多胡碑と考えられているものがそもそも江戸時代以降に彫り直された複製物の中の1つであり,真のオリジナルは既に失われてしまっている可能性も否定できない。
多胡碑には以上のような問題がある。
幾つかの仮説を組み合わせて考えると非常にわかりやすい説明を生成できるので,本当にそのように言えるのかどうかを検証するため,更に調査し,考察を続ける。
多胡碑記念館入口
多胡碑記念館
多胡碑を見学した後,多胡郡正倉跡遺跡を見学した。
遺跡の一部に礎石等が復元されて屋外展示されているが,主要な建物所在地と推定されている区画は現に住宅地となっている場所なので,この先何百年かしないと発掘調査できないかもしれないと思った。全域の発掘調査が完了するまでは,空想の域を出ない。
直観的には,正倉というよりは仏教寺院関連の建物跡のように見える。
徒歩で移動途中に観た道祖神
正倉礎石の展示
同上
正倉跡の説明板
遺跡北東側にある水路
遺跡北側にある水路
徒歩で移動中に観た道祖神
北西の方から見た遺跡所在地付近
[追記:2023年1月18日]
「長崎弥之助」という人物に関し,差出人を「長崎弥之助知行所多胡郡下池村名主千右衛門」とし,宛を「鳥居覚知行所仲大塚村名主五郎兵衛」とし,「送り一札之事(百姓熊次郎妹縁組につき)」と題する文化13年3月付けの古文書が群馬県立文書館に収蔵されていることを知った。文面の内容はまだ確認していない。
この古文書の日付である文化13年3月は1816年3月に相当する。『山吹日記』の日付である天明6年は1786年に相当する。その間に30年ほどの間隔があるので,「長崎弥之助」なる者が物理的に同一の人物かどうかはわからない。
「長崎弥之助」が家号として襲名する呼称であるとすれば,複数の人間が長期間にわたり同一の呼称(家号)を個人識別のために使用し続けるので,(ある特定の時点において特定の家を名乗ることができるのは,当該家の当主だけなので,ある特定の時点における当の個人と他の個人との)個人識別のための呼称の使用という点では問題が生じないけれども,(同一の家号が2世代以上使用された場合)物理的に同一の者であるか,複数の者が同一の呼称を継承したのかを識別不可能にしてしまうという問題がある。
いずれにしても,『山吹日記』(天明6年)に述べられている多胡碑の所在地は「多胡郡下池村」。「下池村」である以上「池村(または上池村)」とは異なる地理的場所ということにならざるを得ない。
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