長野県小県郡青木村村松:村松神社とその周辺(その2)

過日,村松神社(長野県小県郡青木村村松)を参拝した。

薬師堂のあるところから更にしばらく歩き,村松神社の境内地に到着。

境内地は広く,とても立派な神社だと思う。

村松神社は,子檀嶺山山頂に奥社を持つ神社。奥社のある子檀嶺山それ自体が御神体であるとする見解がある。 また,子檀嶺神社及び子檀神社と併せ,三社一体として式内社・信濃國小縣郡子檀嶺神社に比定する見解があるようだ。

社殿の背後地に塚状地形が見られる。古墳なのかどうかは不明。
村松神社の境内地には館または砦があった可能性があると思われるので,もしそうであるとすれば,その土塁の名残りのようなものかもしれないというような印象を受けた。
村松神社の境内地は,現時点では遺跡包蔵地とされていない。しかし,村松神社の北西の方には村松館跡などの遺跡が多数存在する。村松神社の境内地に関しても精密な調査を実施し,遺跡分布図を更新する必要がある。

それはさておき,私が参拝した日は,たまたま村松神社の祭礼の日だったようだ。準備の邪魔にならないように注意しながら参拝し,境内を拝見した。


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正面参道


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鳥居


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拝殿


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左側の狛犬


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右側の狛犬


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本殿


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神楽殿?


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境内社

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境内社


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境内社


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境内の巨樹


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社殿背後地の様子(空堀跡?)


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集会所


「子檀嶺」は「こまゆみ」と読み,「駒弓」を意味すると解する見解が多い。「子檀」は「句麗」であり得るのではなかろうか。「馬冑」に象徴されるように,古代中国の後漢~三国志の時代頃に中国北部~モンゴル高原~西域付近から,(素戔嗚尊の伝説に見られるとおり)朝鮮半島を経由して,馬と騎馬武者の文化が倭国に伝来したことはほぼ間違いないと思われる。
三国時代~北魏による中国北部の再統一までの時代には,中国北部~モンゴル高原~西域の諸国において軍馬を冑や鎧で武装することが行われた。重すぎて戦闘の役にはたたず,装飾的なものに過ぎなかったという説もあるが,この時代の中国の墳墓壁画などには重装軍馬が描かれている例がかなり多数あるので,実際にそのような重装の軍馬によって激しい戦闘が行われたものと推測される。そのような戦闘の有様は,(古代のバクトリア周辺を含め)西アジア~中央アジアに起源をもつものだろうと推測される。
そのような軍事上の文物がそのまま古墳時代の倭國に流れてきている。

一般に,古代の中国北部~モンゴル高原~西域付近のあたりの土地のことを(過去に存在していた具体的な国の国名または現実に存在している具体的な国の国名とは別に)抽象的なシンボル的総称として「こま」または「から」と呼んだ可能性が極めて高い。

「唐」という国家が滅んだ後になっても「唐様」という語が残ったのは,その典型例だと言える。「唐」は,中国語としては(古代においても現代においても)「から」と発音しないので,もともとあった「から」という音を「唐」という字の読みにあてただけと理解するのが正しい。

現在の青木村付近は,古代には「牧」として馬が放牧・生産された場所でもある。

きっと連続している。



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