龍ヶ崎市寺後:頼政神社

過日,頼政神社(茨城県龍ヶ崎市寺後)を参拝した。

源平合戦の時代の源頼政の家臣・下河辺行吉が敗死した源頼政の首を持ち帰り埋めた場所が,そのまま頼政貧者となり,今日まで続いているのだそうだ。

源義経の首の移動の例とは異なり,宇治平等院の闘いにおいて全滅に近い敗戦状況という混乱状況の下で下河辺行吉が源頼政の首を持ち帰ることができたかどうかについては若干疑問が残る。
とはいえ,軟弱で戦闘には不適な以仁王が足手まといになっているという状況判断から頼政が敗死を予見し,下河辺行吉の配下の者に命じて,事前に遺髪または愛用の道具などの遺品を持ち帰らせたというようなことは不可能なことではなかったかもしれず,そのような遺品を埋めて下河辺氏の祖神として崇敬する塚を設けたというような推理は一応成立し得るのではないかと思う。
下河辺行吉とその配下の者らは,源頼政を警護する役割を担っていたらしい。

しかし,下河辺氏の本拠地は古河市周辺だったという史実,そして,古河の頼政神社の本来の鎮座地は古河城の南端付近であり,大正時代になって河川改修工事のために現在の地(古河城の北側)に遷座しているという事実からすると,龍ヶ崎市の頼政神社は,後に,下河辺氏の子孫であり龍ヶ崎に居住していた誰かが古河の頼政神社の分霊を勧請して創始された神社なのではないかというような印象を受けた。

あくまでも一般論としては,頼政が支配していた荘園内の美女を頼政が側室としていた可能性はかなり高く,宇治平等院の闘いの後,その側室が頼政との間の子を連れて関東に戻り,その子が有名な一族の始祖となった可能性は十分にあり得ると考えられる。
このことは,婚姻制に関する現代の法制度や倫理観を常に正しいと考える限り理解できないことだと思う。
しかし,現代は過去ではないし,過去は現代ではない。
過去には過去の倫理観と社会通念と社会制度が存在する。
現代社会になっても,第二次世界大戦の敗戦前には,金持ちが妾をもつことは普通に行われていたし,江戸時代以前もそうなので,古代の貴族が多数の妻をもつことはむしろ必然的なことなのではないかと思う。
『源氏物語』は,そのような思想や社会制度が普通であった時代の産物である文化財の1つだ。

一般に,「一夫一婦制が正しい」という観念に基づき,過去の事実を否定することは,いかなる者にとっても許されることはではない。
そして,一般に,観念と事実そのものとは本質的に異なる。

ちなみに,古河の頼政神社の境内地には立崎古墳と呼ばれる古墳があったけれども,この古墳も河川改修工事の際に破壊され,現存していない。
この古墳からは金環,玉,刀の破片等が出土しており,武人の墓所だったことは間違いない。

それはさておき,龍ヶ崎市の頼政神社の鎮座地は,かつては,水田の中に小さな山があるような場所だったらしい。

現在では,商店街としての市街化が進んだ後に産業構造の変化のために衰退した街区の中にポツンと取り残された奇妙な形の場所のような感じになっている。
細長い参道と小さな境内地だけ昔のまま変わっていないということなのだろう。


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参道


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頼政神社と小さな塚


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義正神社の石祠


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頼政神社近くを通る路地のような狭い道



 龍ヶ崎市観光物産協会:頼政神社



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