栃木県下都賀郡野木町野木:野木城跡
過日,野木城跡(栃木県下都賀郡野木町野木)とされている場所を見学した。
その場所は複数の谷津と「中島」と呼ばれる舌状台地とで構成される場所であり,谷津(低湿地)の部分は,「水辺の楽校」として自然観察のために開放されている。
城跡部分は,台地の上の部分になり,その大部分は畑地なので,中に入って見学できない。仮に畑地の中に入ったとしても特に城跡遺跡らしいものがあるわけではない。強いて言えば,「中島」と呼ばれる舌状台地部分が主郭の所在地であり,その周囲の谷津(低湿地)が実質的には堀になっているという具合に見ることは不可能なことではない。
しかし,城としては何とも中途半端な印象を払拭できない。
それゆえ,城跡ではないという見解もある。
様々な見解があるものの,文字で書かれた双方の見解を読んでいるだけでは何もわからないので,現地を訪問し,通行可能な場所をくまなく歩いて見学してみることにした。
水辺の楽校の見学者駐車場
駐車場にある野木城跡の説明板
「この奥野木城跡」の標識
標識の奥に続く散策路
南東の方か見た「中島」の台地上の様子
東の方から見た「中島」の台地上の様子
「中島」の西側にある谷津の南東端付近
(北の方から見た様子)
(左手上の段丘上に「この奥野木城跡」の標識がある)
「中島」の西側にある谷津に設けられた木道
木道付近の池で見た水蓮
「中島」の西側にある谷津の様子
(野木城跡の説明板の中で「清水谷」として表示されている場所)
「中島」の北西側段丘崖の一部
(北の方から見た様子)
「中島」の北側段丘崖の一部
(東の方から見た様子)
「中島」の北側にある谷津の様子
(奥の段丘上に見えるのは,荏原エンジニアリングサービス思川流域管理事務所の施設の一部)
「中島」の北東側段丘崖の一部
(東の方から見た様子)
「中島」の北東側にある谷津の様子
散策中に見たテントウムシ
のぎ・歴史を歩こう会編『ぶらり野木町歴史散歩-全15コースと小山・古河8コース-』の40頁は,江戸時代(天保14年頃)に書かれた『日光道中略記』の中に書かれているという野木城と関係する伝承記述を引用し,「清六山」というところの「稲荷神社の裏」にあった旨の記載があると紹介している。
『日光道中略木』の原本をまだ読んでいないので確実ではないけれども,そのような記述があるという前提で,通行可能な範囲内で,「清六山」と関係しそうな場所も見学してみた。
ちなみに,『ぶらり野木町歴史散歩-全15コースと小山・古河8コース-』は,ホフマン館(栃木県下都賀郡野木町大字野木)だけで販売しているとのことで,私はそこで購入した。
「清六山」とは,現時点において野木城跡の所在地とされている「中島」という場所の北側にある谷津(湿地)の更に北側にある舌状台地のことを指す。
この「清六」と呼ばれる場所には清六遺跡という大規模な集落遺跡があったが,発掘調査の後に破壊され,現在は思川浄水場等の施設敷地になっている。稲荷神社は現存しない。
思川浄水場等の施設敷地の北側も段丘崖と谷津となっており,全体として舌状台地のような形状となっている。
客観的に見た場合,「清六」と呼ばれる舌状台地は「中島」と呼ばれる舌状台地よりは広く,堅固な城を構築可能な場所ではないかと思う。
この点に関し,野木城跡の説明板の中では,野木城跡とは別の城跡が存在した可能性を前提とする解説が示されている。
思川浄化センターの入口付近
思川浄水場の入口付近
「中島」と「清六」の間にある谷津の東端付近
「清六」の北西側の谷津の様子
(野木城跡の説明板の中で「地獄谷」と表示されている場所付近)
思川浄化センター敷地の東側にある土地の現況
野木城跡と直接関係するかどうかはよくわからないのだが,源頼朝の挙兵の際の野木宮合戦に関する説明板が旧下野煉化製造会社煉瓦窯(野木町煉瓦窯)の駐車場近くにある。
この説明板のある場所で野木宮合戦の主な戦闘が行われたわけではなく,観光用にこの場所に立てられているだけだろうと思う。
野木宮合戦は,『吾妻鏡』に書かれている有名な合戦の1つなのだが,『吾妻鏡』中の記述に矛盾があり信頼できない部分もある。そのため,野木宮合戦の実際の経過に関しては諸説あるようだ。
ところで,「野木宮」という地名または呼称が気になる。「宮」なので,奈良別命と関係する野木神社のことを指すのだろうか?
野木宮合戦の説明板の所在地
野木宮合戦の説明板
この記事へのコメント