名取市植松:雷神山古墳とその周辺(その1)
2022年9月中旬のことだが,雷神山古墳(宮城県名取市植松)とその周辺を見学した。
雷神山古墳は,墳丘長168m,後円部直径96m・後円部高さ12m,前方部長さ72m・前方部幅96m・前方部高さ7.2mの前方後円墳。雷神山古墳の北東側に隣接する小塚古墳(直径54m・高さ8mの円墳)と共に史跡公園として整備されている。
雷神山古墳の前方部端付近は墓地として使用されており,古墳の形状が明確ではなくなってしまっているけれども,全体としては非常に良好に保存・整備された古墳だと言える。
雷神山古墳の出土物は,名取市の有形文化財に指定されている。坪型の土器は,東海型の土器のような雰囲気を濃厚に保っている。
伝説によれば,日本武(倭武)として人格神化されて表現されている朝廷軍の水軍と陸軍が,現在の関東地方から現在の東北地方へと向けて侵攻を続け,現在の亘理町付近で合流したということになっているので,朝廷軍の水軍に従軍して現在の東海地方から順次移動し,徐々に北方へと屯田地を進めた人々の文化が反映されているのではないかというような印象を受けた。
少なくとも,現在の亘理町付近は過去も現在も要衝の地であり,古代においては陸路の交通と海路の交通とが交差する場所だったことは疑いようがない。
亘理町には,三十三間堂官衙遺跡とその関連遺跡がある。現在の名取市は亘理町の北方に位置し,軍事上において非常に重要な地であることから,名取市の台地上に構築された巨大古墳は,朝廷の権威を広く,遠くまで明確に顕示するものであると同時に,重要な軍事施設としての意味合いももっていたのではないかと考えられる。
当時の海水面は現在よりも高かったと推定される。雷神山古墳は,陸路を移動する人々に対しても海路を移動する人々に対しても,堂々たる巨大な容姿を示していたのだろう。
被葬者は,将軍としてこの地まで進軍・屯田して支配した武人集団の長者または古代の皇族ではないかと思う。雷神山古墳が巨大で平板状の前方部をもっているのは,当時,墳丘上及びその周囲において相当盛大な式典が挙行され,その場に武人集団が完全武装で整列したのではないかというような印象を受けた。第二次世界大戦の終戦以前において渋谷公園で挙行された陸軍観閲式で整列する軍隊の様子を撮影した白黒写真を思い出した。
いずれにしても,雷神山古墳出土の遺物は,朝廷による軍事侵攻と支配の確立と関係するものだと考えるのが合理的だ。
史跡雷神山古墳の標柱
雷神山古墳の説明板
名取市内の古墳分布の説明板
史跡公園案内図
正面入口付近
北東の方から見た雷神山古墳の後円部
北の方から見た後円部
北西の方から見た全景
(左手前が後円部・右奥が前方部)
北西の方から見た前方部側面
西の方から見た全景
(右手前が前方部・左奥が後円部)
北西の方から見た前方部端付近
南側入口付近にある説明板
南側入口付近にある方形の台
南側入口付近から見える景色
前方部端の墓地区画隅にある馬頭観世音
前方部端付近から見た墳丘東側の様子
東側段丘縁にある周堤
南東の方から見た前方部
南東の方から見た後円部
石段側面
石段脇にある石祠
後円部の墳頂付近から見た石段
後円部石段付近から見た仙台空港
後円部の墳頂
(左側に倒壊しているのは雷神社)
庚申供養塔
三角点
後円部の墳頂付近から見た前方部
前方部端付近から見た後円部
前方部上から見える景色
西側くびれ部付近から見た前方部
後円部の東側にある休憩所
休憩所にある説明板
東の方から見た後円部
頭上を飛行するヘリコプター
宮城県:指定文化財〈史跡〉雷神山古墳
名取市:雷神山古墳出土遺物
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