熊谷市中奈良:奈良神社
2022年9月上旬のことだが,奈良神社(埼玉県熊谷市中奈良)を参拝した。祭神は,奈良別命。
拝殿前の鳥居の額と拝殿の額には「奈良之神社」と記されている。
ブログ記事を書こうとして写真を点検したところ,うまく撮れていない写真があることに気づいたので,再訪し,重ねて参拝した。そのため,このブログ記事には,前後2回にわたる異なる時期に撮影した写真が混在している。
奈良神社は,豊城入彦命の4世孫・奈良別命が下野國の國造としての任務を終えた後,奈良神社付近に移り住んで開拓に従事したことに恩を感じた地元の者らが奈良別命を祀るために創始した神社とのこと。より正確には,奈良別命に従って移住してきた一族の者が祖を祀ったというようなことだったのではないかと想像した。
鎮座地の地名である「奈良」は,奈良別命とその一族に由来するものだろうと思う。
奈良神社は,長慶寺(元は圓蔵坊)の隣地(観念的には同一の境内地内)にあり,式内社・武蔵國播羅郡奈良神社の論社とされている非常に古い神社。
常楽寺の東約100mのところには,「延喜式内奈良神社和同四年湧泉地舊跡」と記された石碑がある。
ただし,どの時代に,誰によって,どのような経緯で立てられた石碑であるかについては,よくわからない。実物を観察した結果として,この石碑の石材と書体それ自体は,比較的新しいものだろうというような印象を受けた。
ちなみに,「和同四年」と刻まれた碑文をもつ石碑としては,多胡碑記念館(群馬県高崎市吉井町)の敷地内で保存されている多胡碑が有名。
他方,灌漑用の泉(井)を最も重視するとすれば,湯殿神社と西別府祭祀遺跡(埼玉県熊谷市西別府)も該当し得るのではないかと思った。仮にこの考え方を前提とすれば,中奈良の奈良神社は,圓蔵坊が移転してきた頃に他所からの勧請または移転により創建された神社ということになるのかもしれない。
更に,横塚山古墳を奈良別命の墓所とする伝承があるのだそうで,仮にそうであるとすれば,最初は,墳丘それ自体を神社として崇敬したということはあり得ることだと思う。ただし,そのような伝承の典拠及び信憑性の程度は不詳。
一般に,後代の移転等の結果として現在の鎮座地と最初の鎮座地とが異なっている式内社は,それほど珍しいものではない。
ところで,一般に,居住と耕作のための水源となる泉(井)を見つける能力は特殊技能に属するもので,中国流に言えば「風水」の一部に属する。
しかも,少数の一族だけが生きるためではなく,一定数の人々が居住し,耕作し,比較的広大な荘園を形成するとすれば,複数(多数)の水源地を確保しなければならない。一定程度の広さをもつ耕地を灌漑するためには,自然の泉から得られる水だけでは足りないので,溜池や川からの用水路を築造する土木技術をもっている必要性もある。
古代の寺院の中には,そのような土木技術をもっているがゆえに興隆した寺院があると推定される。
奈良別命は,そのような意味での特殊技能としての治水の知識及び技術上の条件を完全に満たしていたために,後に神として祀られることになったのだと思う。
奈良別命自身がそのような知識・技術の持ち主であったかもしれないのだが,おそらく,そのような知識・技術をもつ集団を家臣または家僕として抱えていたのだろうと思う。そのようにして知識・技能をもつ集団が追従したということは,奈良別命が相当に人望のある人物だったと考えて良いと思う。どこかの国の大統領のように「脅し(blackmail)」だけでは長く続かない。
古代の中国において,禹は,治水に成功した帝王として知られている。爾来,中国においても日本国(倭国)においても,治水こそが統治の本質だと考えられてきた。現代では,無知・無教養で,しかも,地元の実情を全く知ろうとしない強欲なだけの議員や議員候補者が増えてしまったので,そうでもないかもしれない。
しかし,地元のこと(特に各地域における地理的条件,気候条件,伝統や特性など)をよく知り,地質学,農学や関連諸科学の基本を知り,地元に応用し,実際に治水や農政に寄与するだけの堅実な能力がなければ,無論,議員として信頼され続けることなどあり得ない。その意味では,禹の時代の古代中国と現代日本との間には,そんなに大きな差異はない。
国として農政とその応用を疎かにすれば,自滅する。
過日,野木神社(栃木県下都賀郡野木町野木)を参拝し,その過程の中で下野國における奈良別命の業績を知り,非常に重要な事績の1つだと判断し,「別府」及び類似の地名の由緒を考察する上でも重要と考え,奈良神社を参拝した上で,周辺の関連遺跡を可能な限り広範に見て回ることにした。まだ全部訪問していないので,時間をかけて網羅したいと考えている。知識は連鎖であり,それ自体が連鎖であること,連鎖する就業の全体と個々の構成要素を知ること,それ自体が「生きる」ということなのだと信じている。
なお,奈良別命と関係する神社や遺跡は,野木神社の鎮座地・野木町のほか,奈良別命と深い関係をもつ二荒山神社の鎮座地・宇都宮市にもある。
境内には「堅牢墜神」という石碑がある。「堅牢地神」のことだと思われ,おそらく,隣地にある長慶寺とその前身・圓蔵坊における修験道の信仰と関係するものだろうと思った。ただし,正式に調べているわけではないので,誤解があるかもしれない。
鳥居
参道の常夜燈
(右手は道路工事のための回り道の誘導担当者)
参道の鳥居
拝殿前の鳥居
拝殿前の参道
拝殿
本殿
社殿側面
本殿下部の彫刻(一部)
合祀社
堅牢墜神
神楽殿?
殉國英霊塔と忠魂碑
社務所
「延喜式内奈良神社和同四年湧泉地舊跡」碑の所在地
「延喜式内奈良神社和同四年湧泉地舊跡」碑
石碑付近にある道標
単なる語呂合わせに過ぎないと思われ,笑われてしまうことが確実なのだが,私見としては,「成田」は「奈良田」と同義ではないかと思う。「別府」は,「奈良田別の館」という意味ではなかろうか?
玄松子:奈良神社
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