茨城県東茨城郡茨城町網掛:網掛稲荷神社と古墳

過日,網掛稲荷神社(茨城県東茨城郡茨城町網掛)を参拝した。
網掛稲荷神社は,網掛の台地の東端付近に位置する森の中に鎮座している。その森の東側は整地されて資材置場のような場所となっている。この資材置場のような場所は,東遺跡と呼ばれる遺跡包蔵地(縄文時代,奈良・平安時代)となっている。
また,森の南側~南東側では,樹木が伐採されており,森の南側の現況は墓地となっている。

網掛稲荷神社が鎮座する森を含め,周辺一帯は比較的大規模な古墳群だったのかもしれない。
網掛稲荷神社の鎮座地となっている森の北東には東古墳の所在地があり,森の中には網掛稲荷古墳群がある。
森の北側に位置する小規模な墓地区画の脇には元は古墳または塚だったように見える地形の残骸が存在する。ただし,この場所は,下畑遺跡と呼ばれる遺跡包蔵地(縄文時代,弥生時代,奈良・平安時代)となっており,現時点では古墳時代の遺跡とはされていない。
以上のほか,周辺地域の畑地等の下にはまだ遺構が残存しているのではないかと思われるが,普通の畑地部分について発掘調査が実施されたことがあるわけではないので,正確なところはわからない。

東古墳は,直径7.5mの円墳とされている。東古墳の所在地は民家敷地内となっているため,その近くには行かなかった。そのため,現存しているかどうかを含め,現況の詳細は不明。

網掛稲荷古墳群は,2基の円墳で構成される古墳群とされている。網掛稲荷1号墳(直径12.3mの円墳)は,網掛稲荷神社の基壇部となっており,墳頂の一部が削られて社殿が建てられている。
網掛稲荷2号墳(直径5.5mの円墳)の所在地は,よくわからなかったのだが,森の東側の樹木が伐採された場所にその程度の大きさの塚状地形があった。その塚状地形部分が網掛稲荷2号墳に該当するのか,たまたま塚状になっている残土のような土塊に過ぎないものであるのかは不明なのだが,その塚状地形部分に残る切株から推測すると,たぶん,その塚状地形部分が網掛稲荷2号墳に該当するのではないかと判断した。
ただし,規模が小さいので,後代の塚である可能性は否定されないのではないかと思う。


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網掛稲荷古墳群所在地となっている森の西側を通る道路


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網掛稲荷神社の鳥居


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森の中の北側部分を通る参道
(社殿は参道奥の突き当りの右手にある)

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北の方から見た網掛稲荷神社


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網掛稲荷神社正面


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手水


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墳丘残部分


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同上


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同上


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樹木が伐採された場所(西の方から見た様子)


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網掛稲荷2号墳と思われる塚状地形部分


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同上


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西の方から見た森


IMG_6204.JPG台地の南東側にある谷津


網掛稲荷神社の鎮座地となっている森の西の方の台地上は,かなり広い範囲にわたって中落遺跡と呼ばれる遺跡包蔵地(縄文時代,弥生時代,古墳時代,奈良・平安時代)となっている。ただし,その詳細は不明。
中落遺跡の西側(鹿島神社の北側)には宮ケ崎城跡という遺跡もあるが,体力と手持ち時間の限界に近づきつつあったので,鹿島神社を参拝してこの日の旅を終えることに決め,宮ケ崎城跡所在地の方には行かなかった。
ただ,徒歩で移動の途中,鹿島神社の境内地の近く(北東)で氏神のような小さな神社のある場所の前を通った。その場所は,宮ケ崎城の外堀土塁の一部なのではないかと思う。

網掛の台地を全体として見た場合,大まかに言えば,縄文時代から既に人々が暮らしており,古墳時代~奈良・平安時代の遺跡があり,鎌倉時代以降の城跡遺跡もあるので,気候が温暖で,水産物にも農産物にも恵まれ,とても暮らしやすい場所だったのだろうと想像される。


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中落遺跡所在地付近


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鹿島神社境内地の近くにある小さな神社


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小さな神社の所在地
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宮ケ崎城の外堀部分の一部
(右上の森は鹿島神社の境内林の一部)



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