水戸市大足町:安國寺
過日,曹洞宗・萬年山安國寺(茨城県水戸市大足町)を参拝した。
安國寺の縁起に関しては,内原町史編さん委員会編『内原町史 通史編』(平成8年)の356~358頁に非常に詳しく書かれている。
これによると,安國寺は,大掾氏と関係があり,元享元年(1321年)に創設された天台宗・常盤山弥富寺(現在の水戸市東照宮付近に所在)の流れを汲む寺院であり,その後,大掾氏が滅んで江戸氏が優勢になると,文明16年(1484年),曹洞宗・弥富山円通寺に改宗・改称して再興となり,更に,その後,江戸氏が滅び,佐竹氏が水戸の城主となると,現在の大足町に移転を余儀なくされ,そして,徳川家の時代になった後,円通寺として水戸に戻ることになったけれども大足町にも円通寺が残ることになり,同じ呼称の寺院が2つあると差支えがあるため,寛文3年(1663年),大足町の円通寺が萬年山安國寺に改称した後,現在に至っている寺院とのこと。複雑な沿革を経たことになるが,まさに茨城県(常陸國)の平安時代~徳川時代の歴史をそのまま反映した寺院史だと言える。
『内原町史 通史編』には,安國寺の創建に関するいきさつや,命名の由来など,非常に興味深い事柄が多数書かれている。現在の茨城県(旧常陸國)における曹洞宗の歴史を理解する上でも極めて重要な寺院の1つなのではないかと思われる。
現在の茨城県(旧常陸國)における曹洞宗の歴史に関する記述には共感できる部分が少なくない。鎌倉時代初期当時の大混乱の中にあって,おそらく古墳時代から続く古い家系の武士としてではなく僧侶として生きることを選択した者の中には非常に聡明な人々が多数含まれていたと推測できる。そうでなければ曹洞宗の広範な興隆を説明できない。
日本史の中では,そのような転機がときどき到来する。古くは白江(白村江)の戦における敗戦がそうだった。明治維新もそうだったと推定されるし,第二次世界大戦の敗戦もそうだったのだと思う。そのような転機において正しく学習し,次の時代にも子孫を残せた家系があれば,そうでない家系もある。そのようにして非常に緩やかに自然淘汰が行われ続けてきたのだろうと思う。日本国の歴史は,対外関係に着目すると,実質的には敗戦と閉じこもりの繰り返しという歴史だったと言える。そのことを明確に認識できるかどうかによって,次代に生存できるかどうかが決まる。
安國寺の本堂前にはしだれ桜の巨樹があり,花の季節にはとても美しく花を咲かせるようだ。本堂前のしだれ桜とは別に,東日本大震災で亡くなった方を弔うために植樹されたという仙台しだれ桜もある。
安國寺の境内地を含む周辺一帯は,大足城という江戸氏家臣・外岡伯耆守の城があったところなのだそうだ。
現在,城跡らしきものはほとんどないが,安國寺の墓地区画の西端~北西端付近に土塁の一部が残されており,また,水戸市内原中央公民館中妻分館の裏手にも土塁の残骸のようなものがある。
安國寺の境内地付近に主郭があったのではなかろうか。
山門
本堂
本堂屋根破風部分
鐘楼
薬師如来像
地蔵菩薩
白山妙理大権現
白山妙理大権現の説明板
道元禪師像
石塔
本堂前のしだれ桜
仙台しだれ桜
仙台しだれ桜の説明板
墓地区画西端の土塁跡(一部)
墓地区画西端の土塁跡と堀切跡(一部)
境内地北西端付近
境内地の外(西側)にある堀跡のような地形部分
水戸市内原中央公民館中妻分館の裏手にある土塁の残骸のようなもの
(現代の土塊の可能性あり)
水戸市内原地区(旧内原町)の城
茨城県の桜:安国寺の枝垂れ桜
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